秀吉天下取りの要諦 ~兵站~ |
天正11年(1583)秀吉が伊勢の滝川一益と戦っている隙を突いて、柴田勝家が近江に兵を進めてきた。秀吉は織田信孝の動きを封ずるため、岐阜城を囲んでいたが、4月20日、賤ヶ岳に布陣していた秀吉軍の先鋒が佐久間盛政らに攻められたため、急を聞いた秀吉は1万5千の兵を率いて大垣を発し、木之本まで急行した。大垣から木之本までの距離は52キロあるが、それを秀吉軍は約5時間で疾走している。 秀吉本隊がまだ到着していないと思って油断していたところへ到着したため、柴田軍は意表を衝かれ、崩れていったのである。 なおこのとき、秀吉は石田三成らを先発隊として派遣し、あらかじめ大垣から木之本までの北国往還沿いの村々に対し、各戸ごとに米一升ずつを炊かせ、松明を準備させている。つまり、1万5千の兵は松明を途中で交換しながら、握り飯をほうばりながら行軍し続けたわけである。秀吉の計算しつくされた兵站確保の戦略が賤ヶ岳の戦いの勝利の決定的要因となったわけだ。
天正15年(1587)の九州征伐の時にもそれが発揮された。日向路を進んだ秀長が15万、肥後路を進んだ秀吉本隊が10万、合わせて25万の大軍であった。 「甫庵太閤記」の「筑紫陣御触之事」によれば、「畿内五か国、北陸道之五か国、江州・濃州・尾州・伊勢・伊賀、南海動六か国、中国16か国、以上37か国、其勢20万余騎とかや。遠国之事なれば、兵糧米馬之飼料、下行あるべき奉行として、小西隆佐・建部寿徳・吉田清右衛門尉・宮木長次、この四人は12月10日に大坂を出立、30万人之兵糧、二万疋之馬之飼料、先ず一とせの分、用意可申旨仰せつけにけり」とみえ、小西隆佐ら4名が「下行奉行」だったことがわかる。 同書はさらに続けて「御扶持方渡し奉行」として石田三成・大谷吉継・長束正家の三人の名前を挙げているが、これは、出陣中の諸将たちに扶持を渡したりする奉行で、さきの「下行奉行」と合わせ、軍需奉行と呼ぶべき性格のものであった。 25万の大軍といえば、人馬の兵糧だけでもかなりの量になり、それを遺漏なく準備するだけでも大変な仕事だったと思われる。秀吉のもとには、こうした財務官僚ともいうべき能吏が何人もいたわけで、この面で秀吉の「近代的」組織と、「近代的」戦略は、外の武将たちの比ではなかったことが明らかになる。 |