戦国大名たちは耕地面積と生産高を把握するために、領内の検地を行ったが、さらに織豊期には全国的な検地が実施された。中央政権としての立場から検地に着手をしたのは織田信長の発想であった。しかし信長の検地は、縄打ち・竿入れといって、実際に田地の丈量を行ったものもあるが、その多くは指出といわれるもので、荘園領主や大名等の土地所有者らに、自発的に検地帳を提出させている。また検地帳の内容や記載形式にもかなりの相違が見られ、反当りの年貢高も、貫・石・俵などと地域によって一定していなかった。秀吉の検地も、初期には形式・内容ともに基準が定まっていなかったが、やがて全国統一と共に内容・方法が整備されていった。
そのいわゆる太閤検地の特色は、長さ六尺三寸の間竿(検地竿)を使用し、一反三百歩、桝は京枡に定めるという度量の単位を統一した。そして検地帳に記載される名請人は、実際に年貢を負担する耕作者とし、反当りの年貢高も従来のような年貢高ではなく、反当りの標準生産高とし、石高で示した。しかもこの石高は、米作のみに限らず、畠や屋敷・塩田等についても、その収益を石高に換算して表す石盛という方法がとられたのである。
秀吉はこの統一的な基準によって、全国的な検地を実施した。ちなみに、この太閤検地について学界は、純粋封建制への転換期とか、家父長制的奴隷制から農奴制への展開とか言った言葉で論じられているが、要するに太閤検地によって、実際に耕作する小農民の自立を促し、小作を使役してきた中世的名主層の没落をもたらしたのであった。
ところで秀吉は、天正19年(1591)3月、諸大名に対して自己の領国内における一村ごとの家数・人数等を書き上げさせる一種の戸口調査である人払令を発布したが、その二か月後の5月3日には、全国に検地帳提出を命じた。その際秀吉は、検地方法の基準を統一しただけではなく、検地帳の規格までをも定め衛、本文は縦九寸、横七寸のの上質典具帳を用い紺表紙に朱紙の題簽をつけ、唐紅の綴糸で仕立てさせている。この秀吉が全国に提出を命じた検地帳は、世に「御前帳」と呼ばれているものである。諸国から群図(指図絵)を添えて調進された検地帳が、大坂城内の一室にひとまとめに集められた。これは秀吉が名実ともに天下を手にした瞬間であった。
秀吉が全国に行った人払令の発布と、御前帳を提出させた意図については、来るべき朝鮮出兵に備えるための兵力動員可能人数の把握とする見方が一般的である。しかし豊臣政権の行った人払令と太閤検地の歴史的な意義は、我が国において初めて全国的な土地台帳と戸籍を持ったことにある。 |