石田三成からの手紙
④ 秀吉への連署状
 


   ~手紙の内容~
当国の状況を連判をもって注進申し上げます。しかるべく(秀吉に)御披露ください
一、大明国へ年内乱入するよう指示を受けたこと、先手へ申し遣わしましたが、小西行長が都(漢城)へまかり越して言うところでは、先々は兵糧もなく、そのうえ寒天に向かい、途中の道筋も無人になり返すこともできなくなるとのことです。各々で相談し、まず国郡へ入り政務を行うよう申し付けました。指示に従わずお詫び申し上げます。
一、いままで注進されていたのと違い、朝鮮国内は静謐ではありません。恐れながら年内に遼東を越え、大明国へ乱入しようとしても先手に立つ者もいません。釜山より遼東までのつなぎの城に入れる人数もなく、2~3百人ずつ入れたくらいでは、籠城もできないでしょう。私はありのままを申上げています。
一、敵兵を五百人千人も殺す間、こちらの者も五十人百人と果ててしまい、また手負いの者も出ます。このままでは勝ち続けるうちに日本人は無人になってしまうでしょう。年内はまず国郡を治め、今年は何としても丈夫にと申し付けました。


 文禄元年(1592)月日未詳 長束正家ら秀吉近臣宛 三成ら三奉行連署状
  主戦派との対立
秀吉幕下にて順調に昇進を重ねていた三成。当然、その地位と権限が増えるほど、その責任の重さも増えていく。32歳になった三成は、かつてない困難と尊敬する秀吉との考えの違いに苦しむことになる。
賤ヶ岳の戦いや忍城攻めなどは、三成が秀吉の下で、その指示のもとに戦ったものであったが、朝鮮出兵で三成は、秀吉の下を遠く離れ、異国の地での戦いを指揮することとなった。いわゆる文禄の役、秀吉の朝鮮出兵において、その在陣奉行として出陣することになったのである。
だが朝鮮の前線と日本の肥前名護屋にいる秀吉との認識の差は、忍と小田原の比ではなかった。日本との書状の往還もままならない異国の地、本営の無理解と現地軍に襲い掛かる飢餓の中で、三成はつらい決断を強いられることになる。そのことが非常によく現れるのは、文禄の役の前半、日本側が平壌で敗れてから「碧蹄館の戦い」で勝利するまでの期間である。
文禄の役の緒戦は、日本側の連戦連勝で幕を開けた。小西行長は平壌を陥れ、加藤清正は明・朝鮮国境付近まで押し寄せていた。後に日本側を苦しめる兵糧不足も緒戦にはなく、朝鮮側の食糧蔵を奪いながら有利に戦いを進めていた。当時の出陣武将の中には「これほど兵糧に困らない戦は初めてだ」と書き送っている者がいるほどである。秀吉が夢見た「唐入り」は実現可能かと思われた。三成が朝鮮を訪れたのは、文禄元年の夏である。
釜山に上陸し、陸路漢城(ソウル)に入った三成は奉行として主将・宇喜多秀家らと共に在陣諸将を一堂に集め軍議を開く。会議では緒戦の勝利に奢り、さらに侵攻を進めようとする主戦派と慎重論を唱える三成らに激しい議論があった。
三成はすでに釜山から漢城に至るまでの間に、荒廃した村落の様子を見て、今後日本側を襲う兵糧不足を予見していたのだ。会議では激論の末、三成ら慎重派の意見が主流を占め、さらなる侵攻は見合わせることになる。但し戦線の整理は不充分であり、日本側の前線は伸びきったままであった。
 戦線を下げるよう主張する三成
実はこの漢城での会議の直後に、三成が記した書状が残っている。冒頭の書状はその一部であり、驚くべき内容である。
書状の中で三成は、秀吉の望む明への討ち入り(唐入り)実行は不可能であり、年内は朝鮮国内を鎮めることが必要だと判断したことを記し、さらに現状では兵糧の維持が難しく、このまま戦いを続ければ補給の続かない日本側は全滅するだろう、と述べているのである。
これはまさに、文禄の役のその後の行く末を、正しく予見したものであった。しかし、唐入りを命じる秀吉の指示と真っ向から対立する書状を、三成がどのような覚悟をもって書いたかは想像に難くない。
年が明けた文禄2年1月、三成の不幸な予見は的中し、平壌の小西軍を李如松率いる明の大軍が襲う。小西行長はこれを支え切れずに敗走、日本側の前線は総崩れになる。嵩にかかってくる明軍をどう迎え撃つかについて、小早川隆景ら歴戦の諸将と三成ら奉行衆が対立した。
小早川隆景が主張したのは、自らが守備する開城で明軍を迎え撃つことであった。開城は大河・臨津江北岸の要衝である。日本側から見ると朝鮮北部へ進出する上での橋頭保となる地であり、秀吉からも死守を命じられていた拠点である。隆景がこの地で明軍を迎えたいと言ったのも無理はない。
しかし三成は、大河を背にした開城では、補給を断たれれば味方の不利は免れないとして、さらに戦線を下げ、漢城で自軍を結集して明軍を迎え討つことを主張する。この後の戦いの推移を見ると、明らかに三成の考えの方が正しかったことがわかるが、隆景は猛反対する。「奉行衆は臆病風に吹かれたか」「兵糧が無くて戦えないというなら砂を食うまでだ」と容赦ない罵声が三成に浴びせられた。
隆景と三成の対立は激化するが、大谷吉継・前野長泰らが両者を仲介し、ようやく隆景は撤兵に同意する。漢城に結集した日本軍は、漢城北方の碧蹄で明軍を迎え撃ち、これを撃退する。日本側の強さに恐慌を起こした明軍は敗走した。史上名高い「碧蹄館の戦い」の勝利である。この勝利を直接もたらしたのは、戦場で巧緻な戦術を見せた隆景や立花宗茂らの活躍である。しかしその裏には、三成の高い戦略眼があったことは間違いない。
  臆病者とののしられた三成
碧蹄館の戦い後、三成らしいエピソードが残っている。
戦いの勝利にも関わらず、開城の撤兵を譴責する秀吉の使者・浅野長吉が漢城にやってきた。責任を問われることを恐れ、俯き黙り込む諸将の中で、三成一人立ち上がり、開城撤兵の理由を滔々と述べたというのである。三成は撤兵の責任は一人で被る覚悟であったのだろう。
その後も隆景は(意外なのだが)、奉行衆を臆病とけなし、碧蹄館の勝利を自己の功績として喧伝することを止めなかった。それに対し三成が反論した形跡はない。
文禄の役のその後は、民衆によりゲリラ戦、朝鮮水軍・李舜臣らの攻勢により日本側は補給路を断たれ、各軍は飢餓に見舞われる。碧蹄館の勝利から3か月後には日本側は漢城を維持することもできなくなり撤退。朝鮮南岸へと退いていく。その中で三成は明との講和を進め、この戦いの早期終結を図ろうとする。
卑怯者、臆病者と罵られた三成の、それが正義であった。三成は文禄の役での戦いの悲惨さ、秀吉の下を離れて諸将を統括することの難しさを強く学んだに違いない。
そして秀吉の指示に初めて正面から逆らった三成の行いは、その後の人生にも少なからず影響を与えてゆくことになる。



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