支配体制と統治政策
 ~身分制度確立~
 


 刀狩令
江戸時代の社会には、士農工商という身分制度があったとされている。現在ではこの身分制度の見直しがなされつつあるが、基本的には武士と庶民という明確な区分があり、幕藩による封建体制を形作る重要な骨組みとなっていた。だが、子の江戸時代における身分制度のもとは、秀吉の政権においてその原型が作られていたといえる。
公家や社寺、それに土豪的名主層らの勢力を弱め、また敵対勢力の武力を封ずることは、統一政権の存否に関わる重要な問題である。これらに対処するために豊臣政権がとった方策が、刀狩令の発布、及び身分統制令や公家・寺社に対して定めた掟であった。
刀狩令は武具狩とも言われ、いわば戦力の根源となる武器類を狩り集めて収公するのである。刀狩令の先行事例としては、柴田勝家が天正4年(1576)に越前一向一揆を平定したのち、「刀ざらへ」と称して民家の武器を没収した例がある。秀吉の刀狩は、天正13年(1585)4月、紀州高野山に発令したものを初めとし、天正16年(1588)7月には、秀吉配下の諸大名にも領内の刀狩を命じ、関東・奥羽の征服とともに、さらにその施行範囲を広げている。
  真の目的は息子
天正16年の掟書によれば、その主旨は「諸国における百姓の刀・脇差・弓・槍・鉄砲・武具などの諸事を固く停止する。不要の道具を蓄え年貢を怠り、一揆を企てればやがてその身を亡ぼし田畠も不作となる。領主・給人代官らに命じて上納させよ。百姓は農具を持ち耕作に専念すれば、国土安全であり万民快楽となる」というのである。
そしてこの刀狩の名目が、大仏殿建立のために釘や鎹に使用し、百姓の福祉を謳っていたことは周知のとおりであるが、その真の意図は豊臣政権とこれを支える領主階級の安定化にあったことは明白である。
なお、この天正16年7月の刀狩令発布と日を同じくして、沿岸にある大名に対して、諸国浦々の船頭・漁師・舟使(水夫)等の海賊行為を取り締まるよう令達している。世に海賊禁止令といわれるものであるが、これもいわば海の刀狩令といえる。

  身分統制に着手息子
刀狩令にうかがわれる百姓の武装解除と兵農分離策は、天正19年(1591)3月に発布された人払令、同8月の身分統制令によってさらに進行される。人払令は大名領内における一村ごとの家数・人数・老若男女の別を調査させ、百姓の移動を禁止したものである。また身分統制令は、侍・中間・小者・荒子らが町人となったり、百姓となることを禁じ、農民が田畠を捨てて商売を始めたり、武家奉公をするような行為を禁じたものである。
これらの法令の施工により、武士と農民とが分離され、しかも武士の多くは城下町に集められたのに対し、農民は転職・移住を禁止され、村落の田地に緊縛されるようになった。
豊臣政権はこうした武士と農民との区別だけでなく、公家や寺社に対する身分統制にも着手していた。文禄4年(1595)8月3日、豊臣政権は、徳川家康・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利家・毛利輝元・小早川隆景の連署による条目を発布した。これはその前日に出された掟書の追加に当たるもので、政治に関わる九カ条を規定したものであるが、その中には次のような二カ条が含まれている。
一、諸公家・諸門跡は、家の道を嗜まれ、公儀の御奉公を専らにせらるべき事。
一、諸寺諸社の儀、寺法・社法を先規の如く、相守り、修造を専らにし、学問・勤行を油断致すべからざる事。
これは明らかに公家や寺社の僧侶・神官らに対する統制であり、後の江戸幕府の発布した「禁中並びに公家諸法度」「諸宗寺院法度」の趣意、すなわち公家・寺社勢力の政治的世界からの一掃を図ったことと、軌を一にしたものといえよう。




TOPページへ BACKします