秀吉天下取りの要諦
 ~機動力~
 


 主君信長さえも凌駕
秀吉の天下取りの過程を軍事面から見た場合、まず第一に指摘されるのは、何といっても卓越した機動力である。極端に言えば、秀吉は抜群の機動力によって、信長の後継者としての地歩を瞬く間に築いたといってもよい。
その機動力は、主君信長が持ち得ていたものである。いざ決戦という際に信長は素早く決断し、素早く動いた。そして敵の意表を突くスピードを持って勝ちを治める。信長が強かった最大の理由の一つである。
秀吉のスピード感は、その信長を凌いでいたといえる。それでなければ、本能寺の変からわずか8年ほどで天下統一を成し遂げられるはずがない。
  本能寺の変息子
秀吉の機動力の最たる例は、天正10年(1582)の本能寺の変直後における中国大返しであろう。
本能寺の変が起こったとき、信長の重臣柴田勝家は北陸方面司令官として、上杉景勝の属城の一つ越中魚津城攻略の最中であった。もう一人の重臣丹羽長秀は、信長の三男信孝を奉じて四国征伐に向かうため、大坂に集結していた。また、滝川一益は上野の厩橋において関東の支配を進めていた。その中で秀吉は備中高松城を水攻めにしている最中であった。
これらを見ると、京都に最も近く、明智光秀と真っ先に戦えるのは丹羽長秀であった。ところがこのとき、長秀は3千の軍勢しか率いていなかった。織田信孝と軍勢4千と合わせても7千にしかならず、光秀の軍勢が1万3千から1万6千に膨れ上がっていた状況では、そのまま光秀の軍勢にぶつかることか不可能であった。
柴田勝家は、6月3日には魚津城を攻め落としており、兵をまとめ一気に北国街道を南下して光秀にあたることは不可能ではなかったが、退却する所を上杉景勝に付け込まれる可能性があり、結局は引き上げることができなかった。
この柴田軍の躊躇が、その後の歴史を大きく変えてしまう。

  中国大返し息子
高松城を包囲中の秀吉の陣中に、本能寺の変の悲報が飛び込んできたのは6月3日の夕刻と言われている。そのころ、高松城の水攻めも戦線は膠着状態となり、秀吉は信長の到着を待って攻勢に出る姿勢に加え、毛利側が和議の方向を模索中であり、秀吉にしても具体的に講和の方向性も捨てがたいと思っていたところだったであろう。そういった状況が秀吉には幸いし、その夜、毛利方の使僧安国寺恵慶を呼んで、信長の死を隠したまま講和交渉を急がせることになったのである。
6月4日に和議が結ばれ、城主清水宗治は切腹した。秀吉としてはすぐにでも取って返し、明智光秀を討とうと考えたが、誓書を交換したとはいえ、信長の横死を知った毛利勢がいつ襲い掛かってくるかもしれず、結局、毛利軍が6日に撤退したのを確認し、2万5千の大軍を京都へ戻す。いわゆる中国大返しが開始されたのである。
6日の午後、備中高松を出発し、11日の朝摂津の尼崎に到着しているが、一昼夜で55キロも行軍したときもあり、そのスピードには驚かされる。結果的に見れば、このスピード、2万5千の大軍を短期間に移動させることに成功した機動力こそが、柴田勝家に先んじて光秀を討つ大きな要因であった。




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