秀吉影のネットワーク
 ~異能の人~
 


 異能ぶりを伝える伝承
小人として信長に仕えてからの秀吉の出世ぶりの目覚ましさは、各種の太閤記などでよく知られるところである。御馬飼・草履取・小人頭・足軽・足軽組頭・足軽大将と駆け上がり、遂には士分に取り立てられる。士分としては、普請奉行として清洲城割普請で、台所奉行として薪炭の節約で名を挙げている。
「甫庵太閤記」によれば、永禄6年(1563)夏、川原えの合戦訓練で一方の大将をまかせられ、その「兵を動かす事が魚が水中を泳ぎ、また鳥が林で飛び回るかのように自由自在」な指揮ぶりで、信長を感心させている。また、長短槍試合で見事な勝利を収めたのもこの頃のことだ。
もちろん、どれも良質な史料には出てこない「伝説」である。だが、知る人もいない放浪時代とは違い、信長の家臣としてのエピソードだ。伝説のもとになる事実は、当然存在したはずである。
  普請奉行として活躍する息子
ここで、大きな謎が一つある。伝説が伝える秀吉の異能ぶりである。
例えば、専門の普請奉行が20日もかけて完成できなかった清須城100間の城壁を、秀吉はわずか2日間で修理したというものである。俄かには信じがたい話であるが、彼のとった作業方法によればそれは可能だったのだ。その時、秀吉は全体を10区画に分けて割り振る「分割作業工法」を採用している。最近目覚ましい成果を上げている産業技術史によれば、これは当時開発されたばかりの全く新しい技術だった。
城郭建築の工程を、それぞれの単位作業に細分、単純化する。全体は複雑で高度な技術であっても、ある人は一定の長さの梁だけをつくる。ある人は穴だけを掘る、というように単純作業化すれば、未熟練な技術者も動員できる。作業を組織化でき、なにより工事が早く完成する。
また、この工法では一斉組立という作業が出てくるが、それを可能にしたのは部品に記号を付ける「番付」という最新技術であった。そして、何より大切なのはその全体を統括するプロジェクトリーダの存在である。
最新技術を理解し、種々雑多な技術者集団を組織して作業を割り振り、各集団の作業の進行具合を調整し、一つの工事を遅滞なく完成させる。それを放浪者上がりの若き秀吉がやってのけたのだ。まさに大きな謎である。

  織田家中にてその存在を認められる息子
また、秀吉は台所奉行としても活躍する。城中で使う薪炭の量をそれまでの三分の一にまで減らす事に成功している。これは彼が計数感覚に優れていただけでなく、薪炭の生産に携わる技術者集団「山方衆」の事情に明るかったことを物語っている。
やはり際立った異能ぶりだと言わざるを得ない。その上秀吉は、武将としても見事な能力を発揮して見せている。彼の武家奉公の経験は、十代後半の2~3年間、小領主の松下家に仕えただけであるのに。
こんな伝説の前半生を終え、秀吉は28歳で確かな歴史上の人物として登場する。すでにその時彼は信長配下の一有力武将であった。信長の知行安堵状にそえて、署名入りの副状を出させたという事実が、彼が織田家中においてその存在が認められていたことを物語っているのである。




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