秀次の前半生
 ~近江八幡城主~
 


 近江八幡城主となる
天正13年(1585)閏8月、秀次は近江八幡城主として43万石の大領を統べる事となった。定説では秀次18歳の時である。
近江八幡城は、現在の滋賀県近江八幡市にある山城である。標高283ⅿの急峻な山頂にあったが、現在はロープウェーで近くまで登る事ができる。展望台からは、琵琶湖や安土城跡、琵琶湖の水を引き込んで作られた掘割、碁盤目条に整然と区画された見事な街並みなど、素晴らしい眺望が広がっている。「背割下水」と呼ばれる下水道も完備されていたそうで、当時、上下水道が完備されていたのは、日本中でこの街だけだという。そのようなこともあってか、近江八幡の人々は今でも秀次を「名君」として讃えている。
さらに有名なのが「金箔瓦」の存在である。大坂城と同じような金箔の残る瓦が発見されたことは、この城がいかに重要な拠点であったかを物語っている。秀吉はなぜこうした拠点に秀次を配置させたのだろうか。
  安土から近江八幡へ息子
近江八幡山城の建造以前、近江国最大の都市は言うまでもなく安土であったが、天正10年の本能寺の変に伴って安土城は灰燼に帰した。その後、秀吉はこれに変わる新たな拠点を設営することとなり、西南の隣地に安土城下町をそのまま移築することにした。移動対象となったのは建物だけではなく、人もであった。いわゆる「近江商人」の拠点は、秀吉によって安土から近江八幡へと移動させられたのである。
秀次へ近江八幡の地が与えられたのは、天正13年閏8月22日付の秀吉判物によってであった。同年の紀伊・四国出兵での軍功に対する論功行賞である。以下、前田家所蔵文書に残る文書を口語訳で見ていく。
近江国所々において、秀次分として20万石、さらにそなたに付けた宿老たちの知行分として23万石を加え、詳細な目録は別紙にある通り、合計43万石を宛がう。趣旨をよく守り、国の統治など固く申しつけるものである。
            閏8月22日  羽柴孫七郎(秀次)殿お
 秀次に重要な拠点を任せる息子
近江国における秀次領は合計43万石に及んだが、そのうち秀次分は20万石、そして秀吉から預けられた宿老分が23万石となっていた。宿老のメンバーは、八幡山城の筆頭家老として田中吉政、水口岡山6万石の中村一氏、佐和山4万石の堀尾吉晴、美濃大垣3万石の一柳直末、長浜2万石の山内一豊などが知られるが、彼らは皆秀吉の有能な直臣であった。秀吉がいかに秀次と近江国の統治に意を用いていたかがわかる。こののち秀次は「近江中納言」として在京することも多くなるから、実際には彼らが近江八幡そして近江国の統治に重要な役割を担ったと言ってよい。
その秀次の近江統治は、天正18年に大きな節目を迎える。小田原出兵にともなう豊臣大名の配置転換の過程で、織田信雄が失脚したのである。その際に秀次は、信雄の旧領のうち尾張と北伊勢五郡を領地として与えられ、近江八幡山城には京極高次が入ることになった。高次の妻は淀殿の妹・初だから、やはり秀吉はこの重要拠点の支配を一族に任せたことがわかる。




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