秀次の前半生 ~近江八幡城主~ |
近江八幡城は、現在の滋賀県近江八幡市にある山城である。標高283ⅿの急峻な山頂にあったが、現在はロープウェーで近くまで登る事ができる。展望台からは、琵琶湖や安土城跡、琵琶湖の水を引き込んで作られた掘割、碁盤目条に整然と区画された見事な街並みなど、素晴らしい眺望が広がっている。「背割下水」と呼ばれる下水道も完備されていたそうで、当時、上下水道が完備されていたのは、日本中でこの街だけだという。そのようなこともあってか、近江八幡の人々は今でも秀次を「名君」として讃えている。 さらに有名なのが「金箔瓦」の存在である。大坂城と同じような金箔の残る瓦が発見されたことは、この城がいかに重要な拠点であったかを物語っている。秀吉はなぜこうした拠点に秀次を配置させたのだろうか。
秀次へ近江八幡の地が与えられたのは、天正13年閏8月22日付の秀吉判物によってであった。同年の紀伊・四国出兵での軍功に対する論功行賞である。以下、前田家所蔵文書に残る文書を口語訳で見ていく。 近江国所々において、秀次分として20万石、さらにそなたに付けた宿老たちの知行分として23万石を加え、詳細な目録は別紙にある通り、合計43万石を宛がう。趣旨をよく守り、国の統治など固く申しつけるものである。 閏8月22日 羽柴孫七郎(秀次)殿お
その秀次の近江統治は、天正18年に大きな節目を迎える。小田原出兵にともなう豊臣大名の配置転換の過程で、織田信雄が失脚したのである。その際に秀次は、信雄の旧領のうち尾張と北伊勢五郡を領地として与えられ、近江八幡山城には京極高次が入ることになった。高次の妻は淀殿の妹・初だから、やはり秀吉はこの重要拠点の支配を一族に任せたことがわかる。 |