秀次の前半生
 ~秀吉一族と秀次~
 


 秀吉の血縁関係
豊臣秀吉と妻おねの間には、なかなか実子が誕生しなかった。そのため、秀吉は早くから養子・養女を迎え、一族の形成・強化を図っていた。日常的に離合集散が繰り返される戦国の世にあっては、「血の結束」は比較的信頼度の高いつながりだったからである。
秀吉には、姉と弟がいた。姉の名はとも、秀次の実母である。そして弟は、のちに大和大納言となる羽柴秀長である。
秀長は、秀吉が信長の家臣であった時代から秀吉を支え続けた。そして信長の死後、関白となった秀吉が戦争の最前線に出るのを渋るようになると、その名代として度々総大将の役割を担っている。しかし、天正18年(1590)の小田原出兵が近づくころから体調不良を訴え始め、翌19年には没してしまう。徳川家康のその後の台頭を、もし抑え込むとすれば彼しかいなかったであろう、その存在感が大きかった彼の死は、秀吉にとってはあまりにも大きな損失であった。
  姉ともの子供たち息子
一方、秀吉の姉ともには、幸い複数の男子があった。年上から順に、秀次、秀勝、そして秀保である。そして秀次・秀勝は秀吉の、秀保は秀長の養子となった。中でも秀次は、小牧・長久手の戦いで秀吉に叱責されたこと等が知られているが、天正13年10月には秀長らとともに参内して侍従少将となり、早くも殿上人となった。それは、秀吉一族の中では秀長の近衛中将に次ぐ高い官職で、徳川家から差し出された秀康や、宇喜多秀家ら他の養子よりも上位であった。秀次は、かなり早い段階から一族内でも重要なポジションを与えられていたのである。
ただし、天正18年から17年頃に秀吉が後継者と考えていたのは秀次ではなく、彼よりさらに若い羽柴秀俊、のちの小早川秀秋であった。秀俊は、秀吉の妻おねの実家木下家に連なる一族の出で、天正10年に誕生したといわれるから、天正16年の聚楽第行幸の時点ではまだ7歳であった。しかし、秀吉に対して忠誠を誓った諸大名起請文の宛先となったり、その他様々な場面でも秀吉の代理を務めている。逆に秀次は、諸大名の起請文に名を連ねて、秀俊そして秀吉に忠誠を誓っていた。
その後秀俊は小早川家に養子に出されることになったから、秀吉の後継者の系統からは外れることになる。そもそも秀俊は、今後期待される実子誕生などの際、容易に後継者の地位を譲れるよう、いわば「つなぎ役」として選択されたというべきであろう。以降、秀吉の実子鶴松の誕生と夭折、秀次の関白就任、そして秀頼の誕生と言った豊臣宗家にまつわるめまぐるしい後継者争いが展開されていくのである。




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