秀次事件とは ~事件の概要~ |
「秀次事件」の世間一般の認識はどのようなものだったのか、概要はおおよそ次のようなものとなる。 「秀吉から関白職を譲られた甥の秀次は、秀吉に実子秀頼が生まれると、疎まれるようになり、次第に心身衰弱状態になった。そして文禄4年7月、遂に秀吉によって高野山に追放され、間もなく切腹命令が下された。なおも秀吉の怒りは収まらず、8月2日に京都の三条河原で秀次の妻子39名が公開処刑され、聚楽第も徹底的に破壊された」 この事件を取り上げた研究は数多く、多岐にわたって興味深い論点も示されている。しかし、そうした論考においても結局は「なぜ秀吉は秀次を切腹させたのか」という根本的な問いを解決することはできていない。それどころか、この事件を巡る秀吉の態度については、「耄碌した」「理解できない」「不明である」というあいまいな形でしか表現できていない。 しかし、「秀次事件」の全体は一カ月に及んでおり、少なくとも三つの大事件、具体的には「秀次失脚事件」「秀次切腹事件」「妻子惨殺事件」が連続して発生している。これまでは、そうした事件の連続性についてあまり詳細な考察がなく、単に「秀吉の怒りが増幅した結果」として処理されてきたが、これだけの大事件の中心にあった秀吉の「真意」については、充分な説明がされていない。
一、事件の原因について 「秀吉耄碌説」「石田三成讒言説」「秀次心身耗弱説」「秀次謀反説」「秀頼溺愛説」などが示されているが、結論を見ていない。 一、事件の構造について 「秀次失脚事件」「秀次切腹事件」「妻子残雪事件」という大事件が連続して発生し、従来はそれらを「秀吉の怒りが増幅した結果」とのみ理解してきた。しかし、各々の事件にはある程度のタイムラグがある上、関連史料の信憑性や記載内容については矛盾点や疑問点も多い。 一、事件関係者について 石田三成は讒言者、秀吉は耄碌した老人、秀次は心身耗弱者などといった短絡的なイメージは、充分な学術的検討を踏まえていない。また、耄碌した秀吉故人の暴走として理解した場合、文禄・慶長期における政権運営が正常に行われていたこととの整合性がとれない。異常事態は個人の暴走、通常業務は組織の安定性によるとするのは、正当な評価とは言えない。事件に関する「政権全体の意思と対応」の明確化は、不可避の課題である。加えて、高野山に派遣された「三使」の検討も不十分である。 一、事件の情報について 秀次切腹直後から、京都の公家衆の日記などには様々な情報が記され始め、それは「秀吉による秀次切腹命令」というイメージ形成の一因となっていた。しかし、それらの記述内容は一致しておらず、「噂」や「風聞」による混乱が見られる。また、江戸時代に成立した軍記・物語の内容がそのまま通説化している側面もある。情報の信頼度については、再検討の必要がある。 一、事件の場所について 秀次がいた京都聚楽第、秀吉・秀頼がいた伏見城、秀次が命を落とした高野山青厳寺の立地条件や相互の関係性について、詳しく検証されたことが無い。京都・伏見から高野山までの130キロ以上の道のりや、青厳寺が秀吉の生母大政所の菩提寺であるという事実、そこに秀次が拘留された意味は軽視できない。 一、事件の効果について 秀次の罪を問うのが「切腹命令」の目的だとすると、山深い高野山では政治的効果がまったく期待できない。また、閉ざされた空間での秀次の切腹と、京都の繁華街における妻子の公開処刑とでは、あまりに処刑の方法や効果に差がありすぎる。 |