秀次事件とは ~豊臣政権と秀次~ |
しかし、そんな豊臣政権も、文禄・慶長期に入ると相次ぐ政治的課題に翻弄され、秀吉の死後、わずか2年で関ケ原合戦という大乱を迎えて早々に瓦解する。弟秀長や千利休ら実力者の死、実子鶴松の夭折等の悲劇を乗り越え、晩年に誕生した秀頼を守るべく用意された政治体制は、何故あっけなく崩壊してしまったのか。そのなかで、秀吉の甥で養子となった関白秀次の切腹が与えた影響はことのほか大きかったといえる。 秀吉には、明るく魅力的な面とは異なる、権力者としての冷酷な一面があったとされている。そうした側面は天下一統を成し遂げた天正18年ころから目立ち始め、山上宗二・千利休らに対する弾圧、二度にわたる朝鮮出兵、そして豊臣秀次への切腹命令と妻子惨殺の一件などは広く知られている。特に朝鮮出兵と秀次事件は、老年の秀吉が耄碌した結果引き起こされた「悲劇」としてあまりにも有名である。
秀吉のキャラクターもまた、極めて独善的で威圧的な側面が強調されがちだが、そもそも豊臣政権とは、秀吉や三成といった個人だけで動かせるような小さな組織では、もはやなかった。戦国乱世は終わりに近づいたとはいえ、なお各地に有力な大名が林立していたから、日本六十余州の統治は極めて難しい仕事だったはずだ。だからこそ秀吉は、圧倒的な存在感、絶対的な権力を持つ必要も確かにあった。しかし彼は、それを常日頃から発揮していたわけではなく、適材適所に家臣を配置し、また諸大名にもある程度の独立した支配権、いわば地方自治を認めることで、豊臣政権の安定化を図っていたのである。
その点を踏まえると、二代目関白の秀次に切腹を命じた、という秀由の政策は、言ってみれば究極の「自己否定」であり、まさに「愚行」以外の何物でもない。幼い秀頼が関白に就任する道は究めて険しくなり、もともと少なかった秀吉の血縁者はさらに減少してしまう。わが子可愛さ故とはいえ、耄碌した老人秀吉の暴走と評価したくもなる。だが、本当にそれでよいのだろうか。 ある一通の秀吉朱印状がある。日付は秀次切腹の3日前、内容は秀次に高野山住山を命じる「法令」である。そこには驚愕の事実が隠されていた。これを見る限り、秀吉には秀次を切腹させるつもりはなかったとしか考えられないのである。もちろん、秀次が切腹したのは事実だし、その翌日には早くも京都の公家衆が「秀吉が秀次を切腹させた」と日記に記しはじめている。何が真実なのか。広く知られた通説は、この先も信じていってよいものなのだろうか。 |
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