秀次事件とは
 ~豊臣政権と秀次~
 


 秀吉の明るさと暗さ
天正10年(1582)6月2日、本能寺における織田信長横死の報を受けた羽柴秀吉は、伝説の「中国大返し」を敢行して畿内に戻り、明智光秀を討つことに成功した。そのわずか3年後に「藤原秀吉」として史上初の「武家関白」になった彼は、瞬く間に四国・九州・関東・奥羽を平定し、遂に天下統一を成し遂げる。戦国乱世にピリオドを打った秀吉の存在は、その貧しい出自や信長家臣としての活躍、楽天的な性格も相まって、歴史ファンのみならず日本中の人々を魅了してきたといえる。
しかし、そんな豊臣政権も、文禄・慶長期に入ると相次ぐ政治的課題に翻弄され、秀吉の死後、わずか2年で関ケ原合戦という大乱を迎えて早々に瓦解する。弟秀長や千利休ら実力者の死、実子鶴松の夭折等の悲劇を乗り越え、晩年に誕生した秀頼を守るべく用意された政治体制は、何故あっけなく崩壊してしまったのか。そのなかで、秀吉の甥で養子となった関白秀次の切腹が与えた影響はことのほか大きかったといえる。
秀吉には、明るく魅力的な面とは異なる、権力者としての冷酷な一面があったとされている。そうした側面は天下一統を成し遂げた天正18年ころから目立ち始め、山上宗二・千利休らに対する弾圧、二度にわたる朝鮮出兵、そして豊臣秀次への切腹命令と妻子惨殺の一件などは広く知られている。特に朝鮮出兵と秀次事件は、老年の秀吉が耄碌した結果引き起こされた「悲劇」としてあまりにも有名である。
  石田三成陰謀説息子
そうした秀吉の暗黒面を描く際、必ず登場するのが石田三成である。「奉行衆」「吏僚派」と言われる彼は、頭は切れるがどことなく陰湿で、日頃から秀吉に誰彼の悪口を言うキャラクターで描かれることが現在も少なくない。しかし、史料から実際の彼の行動を見ていけばわかるように、まず三成はそれほど秀吉にべったりと近侍していたわけではない。日本全国、果ては朝鮮半島までを行動範囲とし、秀吉から離れての活動も精力的に展開していた。もちろんそれは秀吉の許可の範疇ではあるが、三成の行動は政権全体の要請に基づくものであって、一個人を貶めようとか、私腹を肥やそうとか、そのような小さな事に汲々としていたかは疑問である。
秀吉のキャラクターもまた、極めて独善的で威圧的な側面が強調されがちだが、そもそも豊臣政権とは、秀吉や三成といった個人だけで動かせるような小さな組織では、もはやなかった。戦国乱世は終わりに近づいたとはいえ、なお各地に有力な大名が林立していたから、日本六十余州の統治は極めて難しい仕事だったはずだ。だからこそ秀吉は、圧倒的な存在感、絶対的な権力を持つ必要も確かにあった。しかし彼は、それを常日頃から発揮していたわけではなく、適材適所に家臣を配置し、また諸大名にもある程度の独立した支配権、いわば地方自治を認めることで、豊臣政権の安定化を図っていたのである。

  究極の自己否定「関白切腹」息子
秀吉はそうした豊臣政権の大名支配のため、公家社会の伝統的な「家格」を活用した。すなわち、自らを当主とする「豊臣摂関家」の下に「清華成」「公家成」「諸大夫成」というランクを設け、全国の大名をその3つに分類してピラミッドを形成したのである。当然ながら、「豊臣摂関家」の最大のアイデンティティーは、「関白に任官できること」であった。
その点を踏まえると、二代目関白の秀次に切腹を命じた、という秀由の政策は、言ってみれば究極の「自己否定」であり、まさに「愚行」以外の何物でもない。幼い秀頼が関白に就任する道は究めて険しくなり、もともと少なかった秀吉の血縁者はさらに減少してしまう。わが子可愛さ故とはいえ、耄碌した老人秀吉の暴走と評価したくもなる。だが、本当にそれでよいのだろうか。
ある一通の秀吉朱印状がある。日付は秀次切腹の3日前、内容は秀次に高野山住山を命じる「法令」である。そこには驚愕の事実が隠されていた。これを見る限り、秀吉には秀次を切腹させるつもりはなかったとしか考えられないのである。もちろん、秀次が切腹したのは事実だし、その翌日には早くも京都の公家衆が「秀吉が秀次を切腹させた」と日記に記しはじめている。何が真実なのか。広く知られた通説は、この先も信じていってよいものなのだろうか。




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