三成の奉行としての能力・実力
 ~軍政手腕~
 


 秀吉軍の兵站を担う
三成の奉行としての仕事は、太閤検地・刀狩りのような内政面の仕事だけでなく、敵対する諸大名や、同盟関係になる諸大名との折衝など、外交面での仕事もあった。
そしてもう一つ、軍事面での仕事もあった。それが兵站奉行・舟奉行というわけである。
戦いの場合、大名同士の勢力がそう大きくない段階では、戦いそのものはその日の内、長くても3日程度で決着がつくことが多かった。戦国時代「三日分の腰兵糧」などと言われるように、将兵たちは出陣に際し、3日分の兵糧を腰に巻いたり、ぶら下げたりして出陣していった。それ以上戦いが長引いたときは、現地で支給を受けたのである。
はじめのころは、現地で支給を受けることを必要とする長期戦はほとんどなかったが、信長の時代、秀吉の時代と、天下統一の動きが本格化するにつれ、戦いの日も長くなり、軍勢の規模が大きくなり、それら大軍の兵糧をいかに確保するかも大事になっていったのである。
戦に強い武将たちの多くは、こうしたことが苦手であった。そこで、計算能力等に優れていた三成ら奉行派の部将がこうした仕事に携わることになったのである。合戦の表舞台で手柄を立てるような派手さはないが、勝つためには、いかに兵糧が確実に届き、補給が効くかは不可欠な要素であった
  賤ヶ岳の戦いで本領発揮息子
三成が、兵站奉行として最初に力を発揮したと思われるのが、天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦いにおける働きである。賤ヶ岳の戦いといえば、福島正則・加藤清正らいわゆる「賤ヶ岳七本槍」の活躍ぶりが喧伝されているが、実際に秀吉勝利においては、三成ら兵站奉行の裏方における働きが大きく貢献していたのである。
この時秀吉軍本隊は、大垣付近に布陣していた。その留守を見込んで、柴田勝家方の猛将と言われる佐久間盛政が、北近江木之本付近に残っていた
手薄な羽柴秀長の軍罪に攻撃を仕掛けてきた。その情報を得た秀吉が、急遽大垣から木之本までの52キロの道のりを戻ることにしたのである。
52キロといえば、当時の標準的な軍勢の移動時間からすると、最低12時間はかかる。佐久間盛政もその計算で、羽柴秀長ら残留部隊に攻撃を仕掛けたと思われる。
この時秀吉軍は、何と52キロを5時間で走り抜けたのである。この驚異的スピードを可能にしたのは、三成ら兵站奉行の働きがあったからである。三成は、大垣から木之本までの北国脇往還沿いの村々に命じ、松明と握り飯の用意を命じたと言われている。
予想外の猛スピードで秀吉本隊が戻ってきたことにより、佐久間盛政隊が慌てふためく形で崩れ、この崩れが連鎖反応の形で柴田軍全体が崩れていったのである。その意味においては、三成こそが賤ヶ岳の戦いの最大の功労者だったのかもしれない。
このあと、三成は天正15年(1587)の九州攻めに当たっても兵站奉行を務めている。このとき、秀吉本隊が10万、秀長隊が15万、併せて25万という大軍で、しかも九州という遠隔地であった。兵站奉行としての三成らの働きが合戦遂行の成否を握っていたといってもよい。
また三成は、文禄元年(1592)から始まる文禄の役にあっても、兵站奉行を務めている。このときは、兵と兵糧・弾薬などを海を越えて朝鮮半島に届けなければならず、輸送は舟を頼ることになり、舟奉行等とも呼ばれている。
  占領地政策息子
三成はまた、占領地での民政安定にも力を尽くしている。占領地というのは、当然ながらそれまで秀吉に敵対していた勢力が滅ぼされ、その遺臣が生まれ、それまでの支配方式と違ってくるので、摩擦が生じ、混乱も起こる。そうなれば治安は悪化し、年貢収納も難しくなる。
敵対していた勢力が秀吉の傘下に入ったとしても、トップは納得して秀吉に臣下の礼を取ることになるが、末端のものまでがそうかといえば問題が生じてくる。とにかく、いずれにしても占領地をどう安定的に支配していくかは、秀吉にとっても最重要課題の一つであった。
天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めの延長上に位置付けられる葛西・大崎一揆鎮圧のプロセスにおいて、三成らも占領地政策を担っている。
陸奥の戦国大名だった葛西晴信・大崎義隆らは、伊達政宗らと結んで秀吉に抵抗していた。政宗が小田原に出向いて秀吉に臣従したあとも敵対していたため、葛西・大崎両氏は改易処分となった。
そのとき、葛西・大崎両氏の遺臣たちが中心となり、百姓たちを巻き込んでの一揆蜂起となった。これが葛西・大崎一揆である。このときは、石田三成・浅野長政が直接現地に乗り込み、気仙城や大原城などの接収に当たっており、民心の安定を図ったのである。
また、大名たちが秀吉の命により転封されたとき、混乱なくスムーズに事を運ぶため、具体的に現地に乗り込んでいくということもあった。
秀吉最晩年の慶長3年(1598)、それまで越後・佐渡等合わせて91万石を領していた上杉景勝が、会津120万石に転封されることになったとき、三成は、上杉景勝の執政と言われた直江兼続と共に具体的な実務を遂行していた。このときの転封についても、当主が承知したとはいえ、家中全体がすんなり納得したわけではなく、不満分子も少なからず存在していたからである。




TOPページへ BACKします