井上成美と昭和の海軍
 ~生徒としての井上~
 


 海軍兵学校生徒時代
教育家としての井上を語る前提として、教わる立場、生徒・学生としての井上は果たしてどんな人間であったのか。
海軍兵学校生徒時代の井上はどのような生徒かを見ていきたい。日本海海戦で完勝を演じた日本海軍の将校を生んだ地、江田島にある海軍兵学校は、当時の若者の憧れの的であった。仙台における中学生の進学希望第一位は兵学校、次が第二高等学校(現在の東北大学)であった。
明治39年(1906)11月24日、全国から16倍の競争に勝った180名の若者が兵学校に入校した。井上の入校席次は九番であった。英語と数学が得意であった井上も、己よりはるかに優れた才能を持った同期生が数多くいることを知らされた。例えば「アドベンチャーズ・オブ・シャロック・ホルムズ」を読むのに自分は一頁一時間かかるのを、関根郡平は二十頁も読むことができた。大いに発奮して猛勉強して二学年の前期、クラスのトップになった。「井上よくやった、後期も一番になれよ」と多くの同期生から励まされた。「海軍というところは、同僚の良いことを心から喜ぶし、陰口は決して言わないところだ」と井上はうれしく思った。
貴族的な香りのする教育を受け、「リズムがあり調和があり、詩もあり夢もある生活」を井上は3年送り、恩賜の双眼鏡を貰い次席で兵学校を卒業した。時に19歳。
 術科学校時代
20歳の時、オーストリア方面遠洋航海、21歳にて海軍少尉任官。22歳、初級将校の必修コースである海軍砲術学校普通家学生、続いて水雷学校普通科学生となり、兵学校生徒時代に手ほどきを受けた術科の総仕上げをした。
水雷学校の学生の時、ある事件が起こり、学生は講堂に集められ、担任教官より叱責を頂戴したことがあった。最後に「それでも自分が正しいと思う者は出ていけ」との教官の申し渡しに、間髪を入れずさっと席を立ち平然と出ていった者がいた。井上成美である。まわりを一顧だにせず、己の信ずるところを行ったのである。
後年、海軍省軍務局第一課長の時、伏見宮博恭王の圧力のもと、次官、局長の執り成しにもかかわらず「海軍の為、日本の為になりませぬ」と言って、「軍令部条例」改定の案に頑として反対し続け、遂にそのポストを更迭された井上の片鱗がうかがえる。
26歳、大尉のとき海軍大学校乙種学生となる。少尉任官後、クラスヘッドを続ける井上のこの乙種学生での卒業成績は、下のクラスのものに負け2番、義兄の阿部信行に「新婚ホヤホヤだったからだ」とひやかされている。
続いて、海軍大学校航海専修学生となる。
 海軍大学校時代
スイス、ドイツ、フランスの駐在を終え、海軍大学校甲種学生試験の前提条件たる海上勤務九カ月を経て、32歳のとき、井上は海軍大学校甲種学生となった。エリートコースの登竜門たる海大入試では、海外出張の長かった井上のために特別に規則変更もあって、筆答試験は落第であったが、お情けで受けさせて貰った口頭試験がトップだったためにやっと合格している。
海上勤務を去り、大学校へ入学するとき、上司の副長より「大学校へ入ったら一番で卒業しろよ」と激励された。井上はさも心外そうに、「私は俸給を貰いながら二年間も勉強させて戴くので非常にありがたい事と感激しておりますが、一番で出ようなんて思っておりません。時間を頂き教わるのですから、教えられたことは全て身につけて覚えますが、卒業の成績なんか考えておりません。私より頭の良い人がいれば、その人が一番になります」と答えている。こう取りつく島が無い答えようでは、返す言葉もない。そして本人の宣言通り、優等生二人に与えられる恩賜の軍刀は貰っていない。
当時は、ワシントン海軍軍縮条約成立後であるため、海軍大学校における研究は主として旧態依然たる「海戦要務令」を金科玉条とし、太平洋を渡って侵攻してくる優勢なアメリカ艦隊を、いかにして日本近海で劣勢の日本海軍が遊撃、殲滅するかを研究の重点に置いていた。また「戦史」の研究では、第一次世界大戦中のイギリス、ドイツの主力艦隊の決戦を論議することに終始した。「海大では、教官にフォローするばかりの独創性のない者がトップになる。往々にしてこんな奴が国を亡ぼした」と恩賜組をけなす恩賜の者もいた。
海軍におけるエリートコースの入り口で、井上は早くも独自の考え方、生き方をし始めたのである。




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