海軍兵学校時代
 ~日本海海戦で負傷~
 


 卒業後
卒業式当日は雨の為、表桟橋北横の砲術教授所、通称重砲台が式場となった。日清戦争後、クルップなど旧砲は逐次呉鎮などに還納され、山本の入校時を最後にすべてアームストロング砲に統一されていた。
戦時下でなければ卒業の後は、東シナ海の第一次航海を終えて北米、南米あるいは豪州方面の遠洋航海ということになるのだが、江田内で彼らを迎えたのは、韓崎丸(1万500トン)という開戦直後、釜山沖で捕獲した戦利汽船であった。
軍楽隊の奏でる哀愁に満ちたロングサイン(蛍の光)の響きに送られながら、次第に遠ざかる赤レンガ生徒館を食い入るように眺める三十二期新候補生の胸中は、3年の江田島生活を懐かしむ感傷よりも、いざ戦場へという若武者の逸りに溢れたものだったであろう。
翌38年1月3日、日進(イタリア製巡洋艦 7700㌧)配乗を前にして写真を撮り、裏に広瀬中佐が閉塞出陣に詠み残した「正気の歌」の冒頭二行を記して、長岡の父に送った。
「死生命あり論ずるに足らず 鞠躬(つつしんで)唯まさに 報至尊(天皇に報いる)」
 負傷した五十六
5月27日の日本海海戦において、日進艦上の山本は重傷を負った。日進乗組員700余名中、死傷者は95名に達していた。
山本より一期上で「残花一輪」の著者市川恵治少尉は、この時の事を回顧して次のように語っている。
「海戦2日目(5月28日)、山本少尉候補生が担架に乗せられたまま、薄暗い下甲板後部左舷の荷物取入口を開けてランチへ運ばれようとするとき、色青ざめて仰臥する顔にかぶさるようになって『山本君、早く治って帰って来いよ、待ってるぞ』と言ったら、山本候補生は無言のまま唯軽くうなずくのみだった。その両眼はかすかに潤んでいた」
山本の他に三十二期は、重傷2名、軽傷4名を出したが、戦死はなかった。長官東郷平八郎座上の旗艦三笠乗組の堀、三番艦朝日の塩沢、第三艦隊和泉の島田らは無事だった。
三十二期はクラスナンバーと同じ32名の提督(将官)を輩出したが、特に海軍大臣を4名、そのうち2名が海軍大臣に就任した事がクラスの誇りだった。大臣2名は十五期(財部彪、岡田啓介)に例があるが、大将4名というのは、七期(加藤友三郎クラス)と十五期がある。三十九期(伊藤整一クラス)も4名だが、全員戦死後の名誉進級だから異例と言える。
江田島卒業半年にして世紀の大海戦に遭遇、しかも一方的なパーフェクトゲームを体験することになったが、そのこともまた三十二期生としての誇りでもあった。
山本は約四カ月の入院中に少尉に任官、退院後1年余ぶりに長岡に帰省し、やがて国産巡洋艦須磨(三等巡洋艦、2700㌧)乗組を命ぜられ、初級海軍士官の第一歩を踏み出すこととなった。



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