海軍兵学校時代 ~広瀬中佐の精神教育~ |
反町栄一の「人間・山本五十六」に、キリスト教に関するものがある。「五十六生徒が兵学校在校中、ある日曜日、例によって新潟出身の生徒の下宿であり、クラブでもある家に行かれた。集合した同郷出身者は相変らずの元気で、或者は酒を呑み或者は議論している時、高野生徒が黙々として部屋の片隅でバイブルを読んでおられたら、酒を痛飲した一人がこのバイブルを見て、高野生徒を攻撃した。」 「この時には平素無駄口は一つも聞かず、人の議論をよく聞いている高野生徒は、はじめは例によってニコニコと聞いていたが、酒の勢いを借りてあまりにしつこく攻撃してくるので、遂に堂々とキリスト教とバイブルに対する自己の所感を述べられた。この真剣な態度に打たれて、この相手の人は酒の酔いもいずこえやら、百方陳謝させられたのであった。」 山本の入校時、一号生徒三十二期だった片岡廉が回想している。彼は新潟出身者だけで借りていたクラブのリーダーであった。その片岡によると、山本は皆が酒を買いに行くことを嫌がっているのに、進んで「俺が買ってくる」と言って一番嫌な役を進んで引き受けていたといい、こういった時に山本が極めて身軽だったのは有名な話である。
山本は第九分隊の伍長に任命された。八分隊の伍長まで、平均90点以上のチェリーマークが授与されているから、山本はその寸前の成績だったのだろう。一学年同様、前期試験を前にして胃カタルに罹り、目標の成績があげられなかった。子供の頃から胃腸が弱く太れない体質で、在校中「骨川脛男」とあだ名されていた。採用試験でも体重は46.1キロで、最低規格より1.1キロ多いだけであった。 三十二期生が一号生徒になったすぐあと、日露戦争が開始された。日露戦争を前にした明治海軍は、戦術、戦略などの用兵については、一応のめどをつけていたが、肝心の艦船、兵器はほとんど輸入に頼っていた。開戦時の第一、第二艦隊で見てみると、22隻中20隻、トン数では97%が輸入軍艦だったのである。艦砲も初期海軍はドイツのクルップ砲、10年前の日清戦争ではクルップ砲と英アームストロング砲がほぼ半分づつだったが、日露戦争に備えて全てアームストロング砲に標準化されていた。 戦争前から立案計画された、旅順港閉塞作戦が宣戦布告4日後に実施されたが、効果不十分としてさらに1か月あと、第二回が行われた。広瀬武夫が戦死、4月16日に彼の血染の海図が教育資料として兵学校に送られてきた。また有馬良橘指揮の閉塞船千代丸付属のカッターも展示された。千代丸自沈後、旅順口外の救助水雷艇まで脱出するのに使用したものである。 広瀬、有馬とともに、第一、二回閉塞に指揮官として参加した斎藤七五郎、正木義太両大尉らも、兵学校の教官監事として江田島に赴任してきた。生徒たちの精神教育に資する生きた教材だったといえる。 彼らを迎えた在校生徒の士気は、いやがうえにも揚がったのである。この夏も夏季休暇を与えられたが、国運を賭した戦争の最中に、呑気な休暇なんてもってのほかと憤慨する生徒もいた。規定より10日も短縮されたが、それでも42日間の夏季休暇であった。
ラッパで明けラッパで暮れる兵学校では、規則で決められた以外のことをする余裕は全くと言ってない。夏季休暇帰省中にチブスに罹り、9月1日の帰校を約1か月遅れた同分隊の級友のために、山本は数冊の講義ノートを作って彼の机に入れておいた。級友は誰の好意かわからず、遂にある日曜日の外出中に皆の机を調べたところ、筆跡、内容から推して高野伍長のものと分かった。礼を言って好意を謝したが、ただ笑って何も答えなかったと、山本の戦死後初めてこのエピソードを披露した。 この頃の兵学校では、休業の限度を大体3週間とみていた。それ以上遅れれば授業の進捗についていけないと判断されていたのである。留年を覚悟して帰校したこの級友は、10月18日から始まる卒業試験に無事及第し、晴れて少尉候補生になることができた。 生来山本は情の人と言われる。そして今風に言えば、気配り人間である。米内光政は、山本は非常に礼儀正しい人であり、服装や態度は常にきちんとして寸分の隙もないが、その一方で一面においては非常に無邪気で、茶目っ気のある人で、人と総和する器量があり、非常に好かれる人物であったと述懐している。 また、山本は自分は絶対に話さないが、人の為に非常に世話を焼き、しかもそれをいつも知らん顔して、自分の手柄ということは決して言わなかったという。 卒業試験の2日前、明治37年10月16日、ロシアバルチック艦隊は、苦戦を強いられている旅順艦隊増援のため、自らを第二太平洋艦隊と称して、バルチック海のリバウ港を出発。極東を目指して世記の大遠征に出発した。 各学年の累積得点で、平均90点以上だった堀と塩沢の二人が恩賜の優等卒業生となった。山本は十一席で、次に吉田善吾が並んでいた。堀は敗戦後、「兵学校ではほとんど強制的に勉強させられた」と述懐している。彼は機械的に暗記することより、要点を把握することを主眼としていた。 卒業試験終了後、三十二期は卒業式までの間、最新鋭の戦略兵器たる三十六式無線機の取扱を実習したり、対岸の呉海軍工廠で造兵、造機、製鋼などの工場を見学しながら、多忙な日々を送っていた。 |