海軍兵学校時代 ~学業より友情を得る~ |
山本が江田島に渡った翌日、12月14日には米内光政、高橋三吉(大将、軍令部次長)、藤田尚徳(大将、次官、侍従長)、佐久間勉(大尉、第六号潜水艇遭難死)ら二十九期の卒業式が挙行された。しかし採用予定者の三十二期には見学が許されなかった。 その間、軍服の試着、仮縫や指導教官から入校に当たっての細々した注意などがあった。12月16日、分宿していた旅館を引き払い、午前9時校内に集合、下士官教員の案内でバス(浴場)に行き、いわゆるシャバの垢を洗い落とし、来ていた衣服一切を選択袋に放り込み、ふんどし等の下着から通常軍服まで官給品に着替えた。 翌日午前10時から赤煉瓦生徒館前の練兵場で入校式が行われた。校長は河原要一少将で、校長が兵学校出身者となって二代目だった。教頭は東郷正路大佐、居並ぶ教官監事は29名、普通学の文官教官13名、下士官教員43名、そして約400名の三十、三十一期上級生徒たちだった。教官監事は2年後の日露戦争に出陣、そのうち6名が戦死した。 横割り分隊制になったため、新入三十二期は第九から十二の四個分隊に配属された。明治26年に新築された赤煉瓦生徒館は、大体400名の生徒収容を限度としていたので、在校生徒が600名となる明治34年末にあわせて、赤煉瓦の北裏に木造二階建、寝室専用の通称北生徒館が建てられた。天測、航海を学ぶ海軍学校ということで、赤煉瓦も北生徒館もきっちり東西の線にあわせて設計されていた。
「自分は山本生徒の編入された第二分隊の監事として、新入生に衣食住の事から海軍軍人としての心構えなどについて手ほどきしたのだが、山本は寡言で少しも飾り気なく、如何にも真面目で、しかも底力のある青年で、その態度や動作など、今日でも髣髴たるものがあります」 また、大正6年7月に、海軍省事務局長に補されたとき、古川は同局第一課長だったが、「山本の態度や勤務ぶりは依然として生徒時代と変わりなく、しかも透徹した意見の持ち主でした」と振り返っている。 授業の内容は厳しく、英語は英語の時間にだけ習うものではなく、数学、物理、化学、力学、電気工学などの基礎普通学から機関術、運用術の兵学まで、教科書はすべて英語だった。学ぶより慣れろというスタイルだったのだろう。 軍学校は普通の学校生活からは想像もできない厳しいものだった。山本の4年あと陸士に入校した今村均は、敗戦後にこう振り返っている。 「この1年半の陸士の授業は、じつに苦しいものだった。だから甘い気持ちの母校愛の感情は、少しも起きないで学校を去ったが、それでいて受けたあの教育を懐かしむのは、山を越えてから、険しかった坂道の径路を懐かしむようなものである」 そしてその苦しさを「海軍兵学校以外は比較するものがないほど」と表現していた。 日常生活における厳重な規律、過酷とも思えるまでの軍事訓練、加えて学科授業のハードなスケジュールなどで、新入生徒はそれに慣れるまでにかなりの時日を要していた。またそれは、神経に異常をきたすほどである。
山本も慣れぬ生活にリズムを狂わしたのか、入校後最初の定期試験で不覚の成績を取ることになる。 「かかることは口にするのも好まざるところに候が、春期なる昨年5月(明治35年)の試験には、其時の位置(二席入校)に比し非常なる不成績を得て、多分多くの人の笑を買ひ候」 兄の李八に手紙でこう述べているが、二席入校の山本は皆に注目されるポジションであったが、「非常なる不成績」と嘆くくらいだから、かなり悪い得点だったのだろう。 後期試験では平均90点以上を取り面目を取り戻した。しかし二学年の序列は一学年前後期の合計得点で決められ、また前後期90点以上でなければ学術優等章(チェリーマーク、桜の襟章)授与の資格がなかったので、結局彼は一学年をこの章と無縁に二学年に進級した。 当時の三十二期で首席を争ったのは塩沢と堀悌吉で、教官たちは三十二期を塩沢・堀クラスと呼び、二人の首席を争う姿を興味を持って眺めていたそうである。 この頃、山本は堀との間に友情を得た。堀は三十二期をクラスヘッドで卒業するが、山本にとっては友というより彼に兄事していたという見方が敗戦後の定説のようだ。 阿川弘之の「山本五十六」には、昭和9年、ロンドン軍縮会議予備交渉に同行した榎本重治の言として「長岡のがむしゃらな田舎武士の山本を、あそこまで飼い馴らし洗練させたのは、結局堀の力だった」とある。堀は海大も首席卒業だったという秀才だったが、同時に極めてバランス感覚に優れた人間性の持ち主であった。 |