海軍兵学校時代
 ~二席で合格~
 


 海軍少将野村貞
山本五十六の叔父に野村貞(ただし)という海軍少将がいた。越後長岡藩の家老河合継之助を叔父に持つ野村は、戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、薩長軍を相手に砲兵隊長として勇名をはせたが、戦いは利あらずに敗れた。のちに近藤真琴の攻玉塾に学んだことから、誕生間もない東京築地の海軍操練所に少得業生算術教授として出仕、当時幼年生徒だった山本権兵衛らを教えていた。日清戦争では高千穂艦長、戦後は初代竹敷要港部司令官などを歴任していたが、明治33年5月、呉鎮守府艦隊司令長官在任中に病没した。五十六が長岡中学4年の頃である。
五十六の年上の甥の力は、上京して野村宅に寄宿。兵学校を目指したが、生来の病弱のため果たせず、そこで海軍軍医たるべく成医学校に入学した。彼も五十六に兵学校受験を強く望んだが、五十六中学3年の終わりころ、病を得て長岡に帰った後亡くなった。彼に兄事していた五十六にとってショックであったが、その遺志を継いでいよいよ兵学校志望の意を固めたという。
明治維新において朝敵の汚名を着せられた長岡藩の高野家(五十六の旧姓)にとって、海軍少将野村貞は、世に出て名を挙げる一つの指標だったのである。
 三十二期生として受験
明治34年(1901)は五十六ら兵学校三十二期入校の年にあたる。
海軍兵学校が明治21年8月、東京築地から広島江田島に移転して13年目、英人技師ジョン・ダイアック設計による現存の赤レンガ生徒館がたてられて8年目になる。江田島移転後、次第に生徒採用人員を減じていたが、日清戦争を境として増員され、明治32年入校の三十期から200名採用となり三十二期まで続いた。
明治27,8年の日清戦争勝利の美酒に酔いしれる間もなく、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉による遼東半島還付という苦渋を味わされ、予想されるロシアとの一戦に備えて、明治海軍は軍備充実に懸命の努力を重ねていた。それに対応する生徒増員だったのである。
明治34年度の全国公私立普通中学校(現在の普通高校)の卒業生は、わずかに9496名だった。兵学校の200名採用に対し1704名が応募したから、単純計算で行くとこの年の中学卒業生の18%、約5人に1人が志願したことになる。したがって倍率は8,5倍、合格率11,7%という難関だった。
ちなみにその年の陸軍士官学校は4,0倍で、帝国大学に進学を保証されていた旧制高等学校は3,0倍だった。
陸士十五期は五十六ら三十二期生に相当するクラスだが、卒業生に蓮沼蕃、多田駿各大将、谷寿夫中将らがいる。ほかに陸軍幼年学校出身の梅津美治郎大将、河本大作大佐、乃木希典の次男で、203高地攻撃中に戦死する保典(やすすけ)少尉らがいた。
 合格
代数、英文和訳、漢文という三科目の振るい落とし試験にパスし、残りの科目にも及第点を獲得した。上位200名が採用予定者として、明治34年9月11日付の官報に発表された。
五十六は二席で合格。一席には塩沢幸一(海軍大将)、三席は山本の終生の理解者となる堀悌吉(中将、軍務局長)、四十五席に吉田善吾、五十席には島田繁太郎らがいた。なお、官報に発表された200名中2名が辞退し、2名が身体検査で不合格となったため、201から204席の4名が補欠採用となった。なお、残った196名の不合格者のその後を見てみると、捲土重来して兵学校入学を果たしたものが39名、海軍機関学校は30名もいた。約40%もの人間が軍関係勤務を希望しており、日露戦争を前にした当時の中学生の軍人志向が理解できる数字である。
兵学校合格を機に念願の上京を果たすため、五十六は東京から直接江田島へ渡ることにした。すぐ上の兄李八同様、三兄丈三一家の世話になり、入校前の約1か月余を東京で楽しく過ごすことになった。在京中、長岡の父から「生徒心得」など兵学校からの書類が転送されてきた。それは本文だけで19章191条に及ぶ日常生活のルール集で、入校前2,3回読んでも覚えられるものではない。今回の改正のポイントは、第二章編成第六条横割り分隊制への変更だった。
兵学校教育の特徴のひとつに縦割り分隊編成がある。各学年混在で、最上級生徒がある種の権限と責任でもって下級生徒を指導するという一種の自治方式である。
今回の改正の理由は、おそらく行き過ぎた腕力制裁を禁止することにあるのだろう。それまではあまりなかった鉄挙制裁が、明治30年代に入って自然発生的にそれが横行し、学校側から見ても目に余るものが多かったのであろう。
そのおかげか、五十六ら三十二期はのびのびとした最下級三号時代を過ごすことになった。「だから怖いもの知らずの暴れん坊ぞろいのクラスになった」とは、同期の鈴木義一の弁である。しかし1年半後、三十二期が二号生徒の途中で元の縦割りに戻された。さらに三十二期卒業時に改正された「生徒心得」には、以前にも増して激しく鉄挙制裁が行われていたと推察できるくだりがある。兵学校教育を論ずる際、常にこの鉄挙による指導が問題になるが、いまだに賛否の結論は出ていないようだ。



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