3・一文字大名の誇り
新政府への恭順を装う 

    武備恭順
林忠崇が「王政復古論」を執筆した直後に生じた状況の変化の最大のものは、2月12日早朝、徳川慶喜が上野の寛永寺に入り、新政府に対して恭順謹慎の意を表明したことであった。
それに先んじて慶喜は、「いずれも余が意を体し、心得違いこれなく恭順の道取り失わざるよう致すべく候」との命令を、江戸残留の大名や旗本御家人達に下していた。そのため、一時動くに動けなくなってしまった忠崇は、一計を案じた。鵜殿伝右衛門と田中兵左兵衛の家老二人を京都へ急行させ、これまで召命に応じられずにいたのは忠崇が病気だったためだとしたのである。二人の入京は2月17日のことだが、彼らは「勤王に二念なき証書」を差し出しさえした。この時代、内に戦備を急ぎながら恭順を装うことを「武備恭順」という。第二次長州追討戦に際し、長州藩が追討軍に対して採った作戦も「武備恭順」だったから、忠崇はこれを真似たのかもしれない。
いずれにしても、こうして東西の情勢を観望していた3月7日、彼は一度請西藩へ帰国することにした。その理由を「一夢林翁戊辰出陣記」は「人気不穏により鎮静のため」としているが、これは新政府軍約5万が2月11日から13日にかけて、京都から江戸を目指して進撃し始めたと聞き、木更津周辺にも動揺が広まった、ということに違いない。

    恭順か否か
請西藩の陣屋は、間舟台という地名に武家好みの文字を当て「真武根陣屋」と称した。総面積2万4千坪以上のこの陣屋は、東西の方角に表門を付けた本殿の敷地だけでも2千余坪と、小藩にしてはなかなかの規模を誇っていた。
家来3人とともに騎馬で下ってきた忠崇が、この陣屋へ入ったのは8日「暮六時頃」のこと。しかし、彼らはその後1か月以上にわたり、藩論をどのように定めるかという問題で頭を悩ます羽目になる。
そのきっかけは、在京の鵜殿伝右衛門と田中兵左衛門が、「朝命に従い上京すべきの旨」を「再三」忠崇に申し入れてきたことにあった。思うに二人は、京都にあって新政府が着々と新体制を整えてゆくのをまじかに眺めるうちに、請西藩がいつまでも佐幕にこだわっていると討伐の対象とみなされると感じて、危機感を募らせていたのである。
忠崇にも、二人の忠告を行け入れるか否かが「一家の浮沈」にかかわる問題であることを十分理解していた。そこで彼は、新政府軍との対決も辞さぬ覚悟、という胸中までは明かさずに、とりあえず藩士たちに上京の可否を論じさせてみた。
すると最初は、上京反対論が圧倒的に強かった。この論者の根拠は、「今上京したら、費用が足りない。領民たちに苛斂誅求を行ってまで上京して、家を保とうとするのは不本意である。」という筋の通った意見である。そこで請西藩の藩論は、3月30日、上京せずということに定まった。
だが、それより半月以上前の3月14日の時点で、江戸の無血開城と慶喜の水戸への退隠は新政府と旧幕府間の了解事項となっている。以後も京都の鵜殿と田中から「再三再四」状況を促す手紙が届くにつれ、上京論が盛り返してきた。
上京論者は、一度は召しに応じ、王臣たる身の証を立ててから朝敵視されている徳川家の免罪を命懸けで図る。いわば「尊王佐幕」の考え方だから、公武合体論になじんできた請西藩士達にとってはわかりやすい論理といえる。

    領地返上論
その後、1週間で上京反対論と上京論とが拮抗する形勢となったため、4月7日、忠崇は全藩士に対し、どちらの論をよしとするのか「封書をもちて答うべき旨」主命を下した。
ところが、藩士たちがどうこたえようかと各所に集まって議論を重ねている間に、第三の主張が登場してきた。これは、林家が請西藩領という領地を所有しているからこそ上京せよといわれる、ならばいっそ領地をすべて新政府に渡し、それと同時に徳川家の家僕になってしまえばよい、という破天荒きわまる発想であった。言うまでもなくその背後には、領地を失っても「奸藩」「奸賊」にはしたがいたくない、という佐幕一途の思いが揺曳している。
「至極の論なり」、とこれに賛同する藩士が多かった、と「一夢林翁戊辰出陣記」にあり、この第三の立場から書かれた新政府への嘆願書あで同書中に全文引用されているのは、忠敬自身がその執筆者だったためであろう。
請西藩1万石を投げ捨てて無収入になってしまっても、そして大名ではなくただの家僕となったとしても、徳川家に仕え続けたい。「武士は二君に仕えず」という江戸時代のモラルに裏打ちされた忠崇の嘆願書には、彼の純情な佐幕への想いが満ち溢れている。
ただし忠崇は、この嘆願書を駿河までで進出してきている大総督宮熾仁親王に差し出さずには至らなかった。一度は忠敬自身が上京し、召命に応じるのが遅れた積を許されたうえで直接朝廷へ嘆願するのでなければ意味がない、とする議論が起こり、嘆願書が宙ぶらりんになっている間に請西藩を取り巻く政情が急変したのである。





戻る