2・佐幕派大名として 忠崇の王政復古論 |
忠崇の王政復古論とは |
林忠崇晩年の書かれた「一夢翁戊辰出陣記」には忠崇独自の「王政復古論」が書かれている。 王政復古、天下御一新の上は、万石以上(の大名)ただちに王臣たること当然(と)存じたてまつり候。これまで(徳川家の)御譜代の臣といえども、今、天命に随いて徳川家と共に天に事えたてまつる儀と存じたてまつり候。 つまり忠崇は、朝廷が最上位で、それを支える徳川家、さらにその下に大名たちがいるという関係が、王政復古の大号令によって朝廷の下に徳川家も他の大名と等しく仕えることになったと考えていたようだ。 このような思考法によって忠崇は、「忘恩の王臣たらんより全義の陪臣たらん」とする佐幕派の感覚からは一歩抜け出したかに見える。では、それなのに忠崇がなおも上京しないかといえば、王政復古の結果新政府の議定に名を連ねた5人の大名と、その家臣から参与に登用された藩士たちとを「奸賊」とみなしていたからである。 明治天皇、新政府総裁熾仁親王に続くNO3の議定10人のうちに顔を並べた5人の大名は、名古屋藩老公徳川慶勝、福井藩老公松平春嶽、芸州藩主浅野長勲、土佐藩老公山内容堂、薩摩藩主島津忠義。また、これを補佐する参与には、田宮如雲(名古屋)、由利公正(福井)、辻維岳(芸州)、後藤象二郎(土佐)、大久保利通、西郷隆盛(薩摩)らが指名されていた。 |
奸賊の所業なり |
横一線になったはずの徳川家と二百七十藩のうち、なぜこの五藩とその藩士たちとが新政府の主要メンバーになるのか。それが忠崇には理解できなかった。これについて忠崇はこう断言する。 にわかに両三藩(正しくは先述の五藩)いわれなく禁中を守衛し、あまつさえ王座近くを陪臣をして守衛したてまつり、しばしば叡慮に託して私意を主張す。これまったく奸藩の処置にして疑うべきの甚だしきものなり。 この論理に従うならば、1月3日に上京を策した旧幕府勢に対して薩摩藩の方から「暴発」したのも、慶喜を朝敵呼ばわりして親征を企て始めたのも、「まったく奸賊の所業、天を懼れざる処置と申すべく候」ということになる。 1月17日、朝廷が新たに貢士の制度を設けたことも、忠崇の目にはやはり「奸賊の所業」と映った。 陪臣権を盗み、これを天下に恥じて諸藩より貢士を差し出すことを布告す。かかる暴政をおこないて、いかに天下泰平を鼓舞する事を得ん。 忠崇は徳川家も諸大名家も王臣になったと考えていたのだから、ここに言う「陪臣」とは議定となった5人の大名のことではない。参与に指名された五藩の藩士たちのことであろう。 つまり忠崇は、次のような三段論法によって新政府を批判しているのである。 一、議定となった大名5人は、自藩の者たち(天皇家から見れば陪臣)を使って権力を盗み取った。 二、しかし議定たちは、その後陪臣たちによってこのようなことを行ったことを天下に恥じる気持ちが芽生えた。 三、だからこそ議定たちは諸藩からも参与同様に陪臣たちを差し出させ、これを貢士という名の直臣として扱うことによって、自分たちの使った者もまた以前からの直臣であるかのように偽装したのである。 |
勝利した可能性もあった旧幕府陣営 |
その後、明治2年(1869)5月の箱館戦争まで続く一連の戊辰戦争は、ことごとく明治新政府軍の勝利に終わった。それを知る現代の私たちは、忠崇のような意見は「何をバカなことを言っている」と思えるかもしれない。 だが、忠崇がこれを書いた時点では、鳥羽伏見の戦場に出なかった旧幕府後備の陸軍は江戸に健在。旧幕府海軍も、新政府側の微弱な海軍力に対して圧倒的優位を誇っていた。 「歴史上のもしも」は言ってはならないこととされているが、もしもこのあと旧幕府陸海軍が総力を結集して新政府の東征軍を迎撃していたら、明治維新はどうなったかわからない。そして、もしも旧幕府勢が盛り返して勝利していたら、「王政復古」はたちまち「幕政復古」に様変わりしてしまい、新政府は忠崇流の理論によって「奸賊」集団と決めつけられる運命をたどったかもしれない。 このようにまだ流動的な情勢を考え併せてのことだろうが、忠崇は「王政復古論」の最後を、次のように締めくくった。 かかる暴政は実に天道に背き、公明正大とは申し難し。これによりて今、徳川家の旧恩を思い、御危難を救いたてまつらんとする也。 鳥羽伏見戦争へ馳せ参ずることのできなかった忠崇は、再度出陣し、江戸を目指しつつある「奸賊」の新政府軍と対決する腹を固めたのである。いずれ忠崇が藩主自ら脱藩するという一見奇矯な行動に及ぶ理由もまたここにあるのだ。 |