2・佐幕派大名として 慶喜再決起か? |
慶喜からの「内諭の書」 |
忠崇が慶喜がもう江戸城にいると知ったのは、14日の夜のこと。伊能矢柄、大野禧十郎と行き違いに江戸残留の藩士清水半七が早船で追いかけてきて、やはり江戸にもどっていた家老小倉多左衛門からの「大樹公帰城」を伝える手紙を差し出したのである。忠崇に「帰府を促す」その手紙には、慶喜がまだ江戸にいる大名たちに示した「内諭の書」も同封されていた。 その書の中で慶喜は、まず鳥羽伏見戦争の発端から説明していた。 「先般、尾張大納言(名古屋藩老公徳川慶勝)、松平大蔵大輔(福井藩老公松平春嶽)をもって上京いたすべき旨御内諭をこうむりたてまつり候につき、さる3日、先供の者四塚関門(鳥羽街道の起点)まで相越し候ところ、松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義の)家来いわれなく通行差し拒み、かねて伏兵の配りいたし置き、突然と彼より発砲に及び兵端を開き、あまつさえ叡慮を矯め、朝敵の名を負い(慶喜に朝敵の名を負わせ)、他藩の者を扇動し、人心疑惑を抱き、戦い利あらず」 続いて慶喜は、自分が東帰した理由を語り、在府の大名たちに一致団結するよう訴えていた。 「この分にては夥多の人命損じ候のみならず、宸襟をやすんずべき誠意も相貫けず、ついては深き見込みもこれあり、兵隊引き揚げ、軍艦にてひとまず東帰いたし候。おって申し聞かせ候儀これあるべく候につき、銘々同心、力をあわせ、国家のため忠節をゆきんずべき事。」 鳥羽伏見戦争では一敗地にまみれたものの、慶喜にはまだ「深き見込み」があるという。「おって申し聞かせ候儀」もあろうという。 これによって江戸へ引き返すことを決めた忠崇は、伊能矢柄と大野禧十郎の帰船を待って、16日朝10時ころ浦賀を出港。17日に品川沖に戻り、18日未明に再び小舟に分乗して日本橋へ帰っていった。 「隊伍を正して帰邸せり」という表現で忠崇が虚しく終わった最初の出陣の記録を終えているところに、微妙に佐幕派大名の意地が感じ取られる。 |
新政府による旧幕府首脳への処分内容 |
では、鳥羽伏見戦争に勝利した朝廷側は、旧幕府首脳たちをどのように処分したのであろうか。 1月10日の時点で、将軍職を去ってまだ内大臣の位にあった徳川慶喜はその位をも褫奪された。すでに朝廷は彼の辞官納地を既成のこととみなしていたから、徳川最後の将軍はこれによって無位無官の一私人に転落したことになる。 同時に会津藩主松平容保(前京都守護職)、桑名藩主松平定敬、高松藩主松平頼聡、伊予松山藩主久松定昭、備中松山藩主板倉勝静、大多喜藩主大河内正質は官位を褫奪されただけでなく、京都藩邸をも没収された。これは、それぞれの藩兵たちが鳥羽伏見戦争において旧幕府勢に加わったためである。 幕臣たちからは若年寄永井尚志以下、大目付、目付、歩兵奉行など20人がやはり官位を奪われ、小浜・大垣・鳥羽・宮津・延岡の五藩の藩主は入京を禁じられた。 |
こぞって新政府になびく諸大名 |
1月10日中に慶喜追討令を発布した朝廷は、四海平定の自信を深めたのだろう。1月17日には諸藩から貢士を出させ、世論公儀を考えるための議事官とする制度も発足させた。越えて2月3日には新政府総裁熾仁親王を召して親征の命を下したが、このころになるとこれまで召命に従わなかった大名たちも時代の帰趨を悟り、こぞって上京を急いだ。 「明治天皇紀」第一、2月1日の項によれば、この日から同月30日までに帰順を誓った大名家は61家に上る。この中にはすでに討幕の意志を期し鮮明にしていた薩摩・長州・土佐・芸州・津・熊本・名古屋・福井・宇和島・彦根などは含まれていない。 だが、林忠崇は江戸を動かなかった。彼には独自の「王政復古論」があった。 |