1・林忠崇とは はじめに |
「脱藩してまで、戊辰戦争を佐幕派として戦い抜いた青年大名がいた」 こんな大名の存在があったとは、まるで知らなかった。 林忠崇、1万石という小大名ではあったが、れっきとした徳川譜代の大名である。現在の千葉県の請西藩であった。 幕末の動乱期、脱藩するという行動に出る武士はかなり多くいた。 その大半は下級武士。藩の枠に縛られていては自分の志を果たせない。身分社会であった江戸時代にあって、下級武士は諸藩の上士、中士に頭を押さえられていたようなものであり、やむにやまれず脱藩したというものも少なくない。 安政の大獄後、大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」において、その実行犯となった水戸脱藩関鉄之助、薩摩脱藩有村次左衛門らは、自分たちが大老を襲撃したのち、藩に迷惑がかからないようにと考えてのことであった。 坂本龍馬も土佐藩を脱藩している。これは、土佐藩内部の因循姑息な雰囲気に飽き足りず、もっと己を自由にして行動したかったというその表れであろう。 新選組結成に加わった沖田総司は白河脱藩者であるが、彼は生涯をかけて己の剣の道を究めるための脱藩であったのだろう。 いずれにせよ、脱藩者の大半は下級武士であった。が、数少ない異例な脱藩者に、正真正銘の大名がいたのである。 その脱藩大名こそが林忠崇その人である。しかもその脱藩というのも、単身でいずこともなく姿を消す、と言った忍びやかなものではなかった。家老以下主だった家来たちと連れ立ち、領民たちに見送られて陣屋を立ち去る、という威風堂々たるものであった。 いったいなぜ林忠崇は、藩主自ら脱藩するという破天荒な行動に出たのか。そこまでして佐幕派として、新政府軍に徹底抗戦したかったその動機とは何なのか?また、忠崇のその後の人生や、藩主がいなくなった後の請西藩がその後どうなってしまったのか、この項では、検証していきたいと思う。 |