青年期
 ~トウマ鳥~
 


 盛岡藩の出身
原敬といえば、平民宰相という言葉が連想される。しかし、原は平民出身ではない。祖父直紀は、盛岡藩20万石の家老職の身分である。詳しく言うと、藩士九階級のうち、藩主一族の「高地」に次ぐ「高地家格」で、事実上の家老職である「家老加判」、俸禄226石の他に92石分の新田があった。のち兄が家督を継いだから、次男の彼は分家して平民となったのである。
幕末、盛岡藩は朝敵となった。その時父はすでになく、兄平八郎が当主で15歳、次男の健次郎こと原敬は12歳。敗戦の苦しみは藩士にも原家にも降りかかった。
明治元年(1868)12月、盛岡藩20万石没収。翌明治2年(1869)4月、朝廷が仙台藩から没収した白石14万石に移転を命ぜられる。藩主は8月まで猶予を乞い、この間に藩士は白石まで約200キロメートルを移転、苦労甚だしかった。
この年の6月には版籍奉還が行われ、7月に旧藩主は盛岡藩知事に任命されると、藩士たちはまた盛岡へ引き返した。
そして12月、禄制改正が行われ、原家の収入は源米22石に激減された。藩は賠償金77万両を命ぜられる。
 敗者の身で培われた反骨精神
敗戦のみじめさは、いつの時代も変わりはない。原健次郎も多感な少年時代に、この惨めさを味わった。
「白河以北、一山百文」
東北征伐の官軍の兵士は、こう嘲笑した。これより世は薩長の天下となり、東北人の官界進出は極めて困難となった。明治10年(1877)の西南戦争の際、東北人が巡査として多数官軍に従軍したのも、薩摩への復讐の念からであるという。原が後年その号を「一山」としたのも、この時の屈辱感からである。このことは、原の青少年時代にもみられ、新聞記者を志望して「無冠の帝王」たらんとしたのもそのためである。しかし壮年期、政界に入った原は官僚派と見られ、その妥協政治ぶりから世の多くの批評家は、原を官僚の走狗の如く評した。だが、今日「原敬日記」を見る限り、原の反藩閥官僚への反感は随所に見られる。と同時に、元老との良好な関係をも維持しようとしたのも事実である。そこに原の現実政治家としての本領があるのだが、原の妥協策は、藩閥打倒の便宜的手段なのだったのだろう。
 トウマ鳥と綽名される
明治3年(1870)、14歳の原は、再開された藩校作文館の修文所に入った。ここの教育そのものは粗末であったが、新政府や薩長への反感は強かった。ここでの原は、特に歴史を好み、在学1年ばかりで句読師心得に抜擢された。翌年、原は南部家が旧藩士の為に東京に建てた英学塾「共慣義塾」に入学した。既に兄は上京していたから、それより年長の二女をもかかえた母は、母屋の一部を残して他を売り払い、学費を工面した。上京前、原は健次郎から敬と名を改めた。「近思録」によったという。兄の平八郎は恭と改めた。
当時の原は骨太のやせぎすで背は高く、「トウマ鳥(軍鶏のこと)」と綽名された。服装は常に正しく、品行方正で、無口ではないが、はにかみやだったという。「はにかみや」を除けば、後年の原敬の面目がそこに備わっている。しかし、その負けじ魂は別である。
共慣義塾へ入って間もなく、生家に盗賊が入って学費が付き果てた。郷里の親戚から援助の申し出があったが、彼はきっぱりと断って、苦学の道をあえて進んだ。その時彼は5歳年長の友人栃内元吉にこう語っている。
「自分は、たとえ餓死しても他人から金銭の援助は受けぬ。しかし働いて報酬をもらうのは当然で、どんな卑しい仕事でも恥とは思わぬ。働いて自活しながら勉強しようではないか」
独行独立の負けじ魂は、既に早くも15歳の原に見られたのだ。


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