23歳の原は衣食の道を求めなければならなかった。ところが法学校対抗処分者は官吏になれない。そこで原は新聞記者を志した。原と同時に陸・国分青崖・加藤恒忠も同時に新聞記者を志す。彼ら4名の非藩閥者は、記者=民権鼓吹→国会議員→藩閥打倒→大臣のコースを念頭に置いたのである。まず国分が月給8円で朝野新聞に就職した。原は、かなり遅れて同郷の先輩・工部省属官阿部浩―同省権大書記官中井弘―郵便報知新聞社長小西義直のルートで、月給20円で郵便報知に入社し、記者生活の第一歩を踏み出した。中井は桜州山人と号した薩摩出身の奇人、文章にも優れ「鹿鳴館」の命名者で、その娘貞子は、のち原の最初の妻となる。
当時の郵便報知は福沢諭吉門下の藤田茂吉が朱筆で、三田派の民権論者が集まり、御用紙の東京日日に対抗していた。原が入社した1879年(明治12)は3月に東京をはじめとして府県会が行われ、翌80年は4月に国会開設請願書が提出されるという国会開設準備期である。入社以来横浜発行のフランス語新聞から適当な記事を翻訳していた原は、8月にはじめて署名入りで社説欄に「官民相対するの道を論ず」という論説を発表した。入社前に韓退之の「文章軌範」を暗唱するまで研究した原の文章は、自然と韓退之流になり、その趣旨は、官民情理相説して治安を保ち、富強の基をたてるべきであって、政府が権力を頼んで民権派に圧力を加えるのは、逆に彼らを激発させるものである、というにある。この論説は原の「創造的現実の宣言」であって、原の理想はイギリス流の議会主義であった。同年11月の「政体変更論」は、君主専制も立憲政体も、時勢にもとらず民情に背かなければ、いずれでもよいとする現実重視の論である。翌81年12月の「勤王の説」は、勤王の士とは聖誓に戻らず、民意に反せぬ人士のことであり、人民権利の拡張は聖旨であり人民の希望であるから、これに努力すべきであると、民権派の立場に立って論じたものである。当時としては、国体と政体との区別を明確にして論じた、優れた論文といえる。
また81年の5~10月に、原は渡辺洪基(後の東大総長・政友会員)とともに関東・東北・北海道を旅行した。このときの紀行「海内周遊日記」は、各地の産業に着目しているのを特色とする。この旅行で、当時宮城監獄在獄中の陸奥宗光に会った。陸奥の死去の日の原の日記には、「当時伯は禁獄の中にて同所の獄に在り」と記されている。陸奥は後年、原の良き上司であり理解者となった。周遊中の10月2日、原は急ぎ帰京した。恐らくは北海道開拓使事件の突発の為であろう。いわゆる明治14年の政変で、10年後に国会を開設する詔勅が出された。改良主義の立場に立つ原は、この詔勅を賛美し、我が国が向かうべき方針は示されたから、政府も民衆も、これに従うべきだと説いた。しかし、郵便報知は、この政変で下野した大熊の智嚢矢野文雄に買収され、一派の犬養毅や尾崎行雄が連日政府攻撃の筆陣を張り、疎外された原は、翌82年1月25日に退社し、4月には一転して御用政党の機関紙大東日報の主筆として迎えられ、4月14日に神戸に赴任した。原にとっては大きな転進であった。新聞記者から大臣へ―のコースに代わって、かつて敵意を抱いた藩閥の巨頭に接近し、事務官僚から政治家へのコースが選択されたのである。
かつて自由民権運動に、かなりの共感を示した原は、専制政府の弾圧にも自由党急進派にも組しない。いわば穏健な中庸論者で、時勢を洞察した政策を最良とする現実主義者である。その原の退社に目をつけ、井上馨にひきあわせたのは井上毅や小松原英太郎らしい。神戸赴任前、3月2日夜に立憲帝政党結成の相談が行われていた井上邸を訪れ、6日には帝政党党首に予定されていた東京日日新聞社長の福地源一郎(桜痴)邸の協議に加わり、10日には他の党員とともに山県有朋・西郷従道・松方正義らの閣僚と会合した。帝政党は18日に結成された。
原は大東日報紙上に「入社の理由」を発表した。要は主義の一致ということであるが、原は何ほどかの後ろめたさを感じなかったのだろうか。彼は敵視していた薩長藩閥の陣営に組み込まれていったのだ。月給は80円と一挙4倍、他に30円の交際費が付いた。ときに原は24歳。明治初年は青年の活躍舞台であり、伊藤も陸奥も20代で県令(今の知事)になった時代である。原はこの転身に生涯をかけたのかもしれない。
原が日報に「入社の辞」を掲げた2日後の4月6日、板垣退助が岐阜で遭難した。7月には朝鮮に壬午の政変が起こった。井上外務卿は下関に急行し、原も神戸からこれに加わって、8月中旬に井上が下関を引き上げるまで滞在した。帰社してみると、社の財政は火の車。これは本家の東京日日が御用紙であるというので売れ行きがガタ落ちとなり、帝政党の不評判で、政府もこれを厄介扱いにしたのである。やがて日報社は社内紛争を起こし、原は10月末に辞職した。 |