青年期
 ~司法省法学校時代~
 


 バンカラ学生に対抗
明治8年(1875)10月に上京した原は、官費学校受験期を待つため、箕作秋坪の三叉学舎に入った。前月に起こった江華島事件で東京は湧いていた。新政府の対外進出策は緒についていたのであり、受験校から見て原は軍人か外交官を志したらしい。翌明治9年6月に海軍兵学寮(8月に海軍兵学校と改称)を受験して失敗したが、7月の司法省法学校には受験者約1000名、合格者100名中の2位で合格した。
ここの学生は粗暴の風を誇り、官給の服を質に入れて酒食に費消したから和服が多かったが、原は角帯・白足袋(流行の薩摩の黒足袋に対抗)の整った服装で、薩摩下駄を用いたことが無かった。また、強情で議論好きであり、老成の風があり、バンカラ党に対するハイカラ党の領袖で、「政事家」と綽名された。俊敏の風は十分に現れていたのである。

 退校する
入学後間もない9月に神風連の乱、萩・秋月の乱がおこった。乱鎮圧後、原は「前原一誠(萩の乱の首魁)は時勢を知らず気の毒である。しかし頑固連は身中の毒で、早く表面にあらわれて治療されたのは喜ぶべき事である」と、同郷の友人に報じている。翌明治10年2月には最大の士族反乱の西南の役が起こった。1歳年上の犬養毅は慶應義塾の学生であったが、従軍記者として文名を馳せた。原の方は、日々課業に追い立てられて世事に及ぶ暇なく、8年間時務を投げ捨てなければならぬとは残念だと、胸中のうっ憤をもらす。翌明治11年には大久保利通が暗殺され、大隈重信・伊藤博文の時代に入る。政治社会の変転は急であった。
予科3年にすすむ直前、当時流行の賄征伐(食事に対する不平)がここでもおこった。20名が禁足処分を受けた。賄征伐に加わらなかった原は、この処分を良心の自由を束縛したと感じ、東北人の陸羯南・福本日南らとともに共鳴する学生の総代として校長に抗議し、さらに司法卿大木喬任に直訴した。大木は訥弁だからやりこめろと、20分の面会時間に原・河村がまくしたて、大木は、この事件は若いものの元気のあらわれだとして、校長に処分を撤回させた。だが、薩人の校長は収まらず、予科3年の春季大試験に、原ら16名を理由を示さず退校を命じ、原は退校した。




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