青年期 ~司法省法学校時代~ |
ここの学生は粗暴の風を誇り、官給の服を質に入れて酒食に費消したから和服が多かったが、原は角帯・白足袋(流行の薩摩の黒足袋に対抗)の整った服装で、薩摩下駄を用いたことが無かった。また、強情で議論好きであり、老成の風があり、バンカラ党に対するハイカラ党の領袖で、「政事家」と綽名された。俊敏の風は十分に現れていたのである。
予科3年にすすむ直前、当時流行の賄征伐(食事に対する不平)がここでもおこった。20名が禁足処分を受けた。賄征伐に加わらなかった原は、この処分を良心の自由を束縛したと感じ、東北人の陸羯南・福本日南らとともに共鳴する学生の総代として校長に抗議し、さらに司法卿大木喬任に直訴した。大木は訥弁だからやりこめろと、20分の面会時間に原・河村がまくしたて、大木は、この事件は若いものの元気のあらわれだとして、校長に処分を撤回させた。だが、薩人の校長は収まらず、予科3年の春季大試験に、原ら16名を理由を示さず退校を命じ、原は退校した。 |