政界を切り回す
 ~油断ならぬ原敬~
 


 原を警戒する桂
大阪一揆が落着して4月21日の総務委員会で、臨時大会召集と党内改革の意見が出た。原は、大会を開くといたずらに紛糾する、党内改革は議会後でよい、それよりは党内攪乱を図る政府に対し、一致協力して当たろうと主張し、一同の賛成を得た。
桂の要請で、大磯から上京した伊藤が総務委員に妥協の事実を話したのが4月26日、一同は寝耳に水とばかり驚いた。原は想像した。伊藤は桂に泣きつかれたか、党内に軟派が多いので勇進の気が消耗したか、と。翌26日、総務委員は妥協を条件付きで承諾した。林有造が伊藤を「半元老・半総裁」と評したのはこの時である。
5月に入って2日に政友会では組織変更が行われ、総務委員を廃して協議員が置かれ、うち5名が常務委員、当分尾崎・松田正久・原の3名が任命された。3人は5日に伊藤を訪うて妥協の真相を聞いた。妥協の事実を知らぬ党員は、議会で政府攻撃の態度をとった。開会は12日であるが、いかに政府攻撃をしても、舞台裏では妥協はできている。この間、伊藤と密接に連絡し、伊東巳代治を通じて桂と交渉したのが原である。政府も政友会も面目を失わないで、しかも桂に裏をかかれないという困難な仕事を原は処理した。いまや原は難況処理に欠くべからざる人物となった。桂ほどの策士が伊東に「原は実に油断ならざる人物」と報じたのが5月18日である。桂は将来の好敵手をここにはっきり認識したであろう。
 原の快腕
19日は委員会で増祖継続案否決、原は伊藤を訪い、伊東も来会、ついで桂が妥協を申し込んできた。原は本日の委員会における曽祢蔵相の不手際を伊藤・伊東・桂に詰った。20日に原ら三常務委員が桂を訪うて妥協案をまとめた。ここでも原は全く他の二人をリードし、政府側から約束を取り付けている。翌21日から常務委員は妥協を党員に納得させねばならぬ。議論紛糾して各団体とも妥協を承認せぬ。憤慨した尾崎はすでに辞表を叩きつけている。伊藤はすでに桂に再交渉せぬと約束している。原は桂に議会停会の必要を告げた。23日、党員説得に上京しようとする伊藤を、原は押しとどめた。それはかえって党の分裂を必至とすると判断したからである。24日、原の快腕は各団体をして妥協を承認せしめた。このあと鉄道について政府から要請が出たが、原は拒絶した。
なお5月29日に議案となった教科書疑獄事件や取引所問題についても、桂はしきりに原に面会を求め、文部・農商務両大臣の問責決議につき、関係大臣が神経質になっているから、否決してほしいと言い、平田東助農商相は廊下で原をとらえて秘訣を哀願している。これらに対する原の応答は、極めて的確でよどみがない。。また交渉には、よく議員総会で院内総務一任を取り付けて的確にさばいている。大阪毎日社長時代も、社員に議論させるが、結局は自説を押し通したという。それは単なる独裁者の態度ではなく、熟慮の末になり成案があり、敢然断行する気概がある。この時の問責案も、伊藤は承知せぬが、それだと党員がおさまらぬという見地から、松田と協議して独断で処理し、伊藤が怒って常務委員の辞職を望んでいると聞くや、議会終了後の6月4日に松田とともに辞表を提出した。しかし両人の働きを認めた協議員は、この辞任を不利とし、総代を出して伊藤に懇請、伊藤も遂に留任を懇請するに至った。
 伊藤から西園寺に
しかし、この議会は政友会にとって、何とも後味の悪いものであった。それは、一に伊藤の秘密裏に行った妥協にあった。伊藤には伊藤なりの考えがあったろうが、政党の総裁としては鼎の軽重を問われざるを得ない。果たして議会閉会前後より脱会者が続出し、この脱会は伊藤の総裁辞任後も続き、合計51名に及んだ。
一方政府としても、伊藤が政友会総裁である限り、何かと煙たい事が多い。清浦などは、今議会の桂の奮闘を多とし、「政党も今しばらく辛抱して退治に従事すれば、気焔を注ぐことができる」と山県に報じているが、桂の考えはそう甘くはない。桂は議会閉会後直ちに山県に手をまわして伊藤祭り上げを策した。表面上は病気である。伊東巳代治が裏面で働き、山県をつついて勅書を下し、伊藤の枢密院議長就任をすすめさせた。伊藤としては政党総裁を重荷に感じていたに違いない。桂が辞任せぬことを条件に、かつ山県らが自分らも枢密院に入って応援するからというので、7月12日に受諾した。政友会幹部は驚いて引き留め、原も、これは山県系の奸計で政党勢力を破壊するものと断じ、伊藤にも直接会ったが、すでに及ばず、西園寺が第二代総裁に就任した。



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