政界を切り回す
 ~再度の妥協~
 


 増祖継続の賛否問題
桂内閣は、前回の妥協条件として行政整理を実行しなくてはならなかったが、いつもの場合と同様、今回も掛け声だけに終わった。そこで政府は、ロシアの南下に備えて海軍を拡張するため、1899年に5年間の期限付きで増徴した地租を再び継続しようとした。ただでさえ「農民党」と言われた政友会が反対するのは当然であり、衝突は必至であった。
組閣以来一議会を乗り切った桂には、そろそろ首相ぶりが身につき、自信も湧いてきた。1903年の5月ごろ増祖継続を明言した桂は、伊藤も賛成だと言いふらした。7月下旬に桂は伊藤巳代治に次のように語った。「伊藤が再度奮起するなら、自分は陸軍なり文部なりになって援助する。しかしあの連中(政友会)との連携は御免だ。伊藤が反抗するなら大義親を滅ぼすである。再度恥をかかせてみせる」と。また8月には、政友会員に大臣となり得る者なしと豪語し、行政整理を見送って、地租増徴一本やりで議会に臨もうとした。
当時伊藤は、増祖もやむを得ぬが、政友会代議士中には増祖反対を公約して当選している者もあるので、政府がもう少し整理の実をあげなければ政友会員をなだめえないと考えていた。この情勢を観察していた原は、自分で財政整理の案を作り、それを基礎に伊藤を説得して増祖継続反対の線に誘導した。総務委員会も財政と軍備の調和を理由に、海軍の大拡張には反対である。そこで伊藤は伊勢参宮のついでに11月24日に京都の山県を訪れ、九州の陸軍大演習に行っている桂の帰りを待ち受けて三者会談を策したが、危ないと見た山県は「我ら閑人が局外から容喙することではない。特に自分は軍人である。貴意は桂に伝えよう」とはねつけた。伊藤は怒って京都を去った。
 「軍人」山県の暗躍
帰京した桂は閣議で反政友会の結束を固め、閣僚も同意した。だから伊藤が桂を訪ね、数人の閣僚の前で自説を主張しても、政府の決心変化なしと答え、数日後に伊藤を訪ねて政治と私交とは別だと申し入れた。まさに宣戦布告であり、伊藤が、今夜大隈と会う予定だと政友会・憲政会提携をほのめかしても、桂は動じなかった。両大政治家を敵に回すは欣快の至り、桂は京都の山県にこう報じた。山県は大いに賛意を表し、中央突貫策に留まらず、なお2,3回決戦すれば数年後に国論は統一するとまで激励した。これが閑人・軍人山県の実体である。
第17議会では1902年12月9日から開かれ、16日の委員会で増祖否決、議会は5日間停会となった。この間、政府は盛んに流言を放って伊藤を中傷し、スパイを放ち、また党員を鉄道・治水・山林問題で釣ろうとした。他方で、井上や近衛篤麿を動かした。近衛は衆議院議長片岡健吉に調停を交渉し、片岡は一部の幹部を紹介した。原は党内の動揺を恐れ、再度片岡に注意を与えて近衛からの調停を拒絶させた。すでに原の実力は旧自由党の名士片岡を圧していたのである。また政友会では政府と通じた代議士5名を除名した。
暮の21日は議会は7日間停会。25日に両政党幹部と桂が会合した。心配した山県は、京都から桂に慎重注意して突進せよと助言する。桂は地租を3分3厘から3分まで譲歩したが、折り合わず、28日に議会は解散された。
 内閣の上に元老
1903年(明治36)の正月を迎え、原の日記は13日の北浜銀行頭取辞任以外は選挙準備一色に塗りつぶされる。しかし、その裏面では、2日に伊藤と桂の妥協が成立しかけていた。
伊藤は葉山の皇太子別邸に伺候したついでに近くの桂の別荘を訪れた。桂はほくそ笑んだ。酒肴を饗して伊藤得意の懐旧談にひきずりこみ、別荘の命名を請うと、伊藤は上機嫌で差し出された絹布に「長雲閣為桂相国 伊藤博文」と鮮やかに描いた。妥協への道は開けた。
22日、桂は答礼を兼ねて伊藤を訪ね、今後の自分の進退はどうすればよいかと伺いを立てた。伊藤は、自分も山県もあとを引き受けにくいから、君が続けてやれと答えた。桂は伊藤が提案した行政整理による財源捻出策に熟考を約した。勝負は決まった。あとは山県がしばしば伊藤を訪問した。これには、内海忠勝内相までが「両元老の往復ことに頻繁、内閣の上に内閣がある」と憤慨した。
3月1日の総選挙で政友会は15の議席を失った。原は無競争で当選した。4月10日は神戸の観艦式、20日は大阪の内国博覧会に議員招待とあって、政界の中心は一時阪神の間に移る。この間、警視総監大浦兼武が、桂への忠義立てから、かつて恩を施した政友会院外団森久保作蔵をそそのかし、党内改革ののろしをあげさせた。いわゆる大阪一揆である。4月20日の内国博に、伊藤は桂と同じ馬車に乗った。妥協を知らぬ党員は驚いた。翌21日は京都の無隣庵で、伊藤・山県と桂・小村が会合、日露開戦の重要会議を遂げた。



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