政界を切り回す
 ~対決と妥協~
 


 山県有朋の警戒心
政友会に対抗する桂陣営はどうであったのか。御大の山県は、東京にいると桂内閣の後援者だとみられるというので、京都無隣庵に閉居していた。ちなみに、山県は作庭の名手で、東京目白の椿山荘・小田原の古希庵や小陶庵は、無隣庵とともに明治の名園である。周密な山県は、東京を去る前に桂に充分言い含め、さらに8月11日には手紙で「将来政府困難の原因は外交でなく内政上より起きる」と注意した。当時もっとも新聞紙をにぎわしていたのがロシアの南下策であるが、それ以上に山県は政友会の反攻を気遣い、桂は「油断しない」と答えている。だから伊藤の外遊は、桂をホッとさせたはずである。だが、伊藤出発の当日行われた閣議では、曽弥蔵相の財政案に大反対が起こり、以後閣内の紛議は絶えない。僅かに表面平静を装っているという状態である。
また政友会では伊藤が出発して1週間もたたないのに、有志が芝の紅葉館に会して内閣攻撃を協議し始め、アチコチで火の手が上がっていた。11月6日の総務委員会ではだいたい政府反対の線が出された。翌7日に原は西園寺に、内閣が転覆すれば躊躇なく後を引き受けてほしいと説得した。政府攻撃の理由は、政府がまだとれもしない北清事変賠償金をあてこみ、預金部で八割引きにして予算化しようとした点にあるが、もとより復讐戦である。憲政本党は政府と妥協を策して政友会の働きかけに応じない。
 井上の恫喝を跳ね返す原
上記の情勢は伊藤巳代治を通じて外遊中の伊藤に報告され、11月29日に伊藤はロシアから、国際情勢上みだりに政府に反抗するなという電報を打った。12月3日の党大会で反政府の態度を決定した翌日、原は井上に呼ばれて上記の電報を見せたが、原は引き下がらない。
井上は、清国賠償金を基礎としなければ財政策はたたない。私は誰よりも財政の事は知っているから、と大いに怒って原を恫喝するが、原は全く屈せず、危険な賠償金をあてにする予算は、採用する必要はないと数字を挙げて説明する。それでも井上は頑として聞く耳を持たない。
その頃、桂の手は政友会の軟派にまわっていた。鉄道国有論者や呉製鉄所拡張論者は政府に同調し、その数は70名前後になった。議会では予算について政府・政友会の双方が譲歩したが、開きがあまりにも大きいので決裂した。すると軟派の活動は一層活発化した。また伊藤の電報を見た幹部も、事前の伊藤の妥協を聞かされ、原も今までの倒閣意図を捨て、倒閣に至らぬ範囲で党の主張貫徹に努めた。しかし事実は政友会は譲歩に譲歩を重ねたのである。
 伊藤は大政党の統率者の器に非ず
幹部は党内の硬派をなだめるため、田健治郎ら軟派の代表3名を除名した。軟派は巻き返しに出て内紛が続いたが、1902年3月に帰朝入京した伊藤の要請で、内紛は治まった。誠に後味の悪い結末であった。伊藤は何を考えているのか。
実は伊藤が帰朝して長崎に上陸したとき、原は井上や、出迎えに長崎へ行く加藤高明に、伊藤説得を依頼していた。その内容は「政府の表面の体裁と内密の政略とは全く相反するように思うから、伊藤候の政友会創立時の宣言通り、憲政有終の美を治めるためには政党内部の刷新が必要であり、私党の根底を固めようとする政府の計画に対し覚悟せねば意図は水泡に帰する」ということであり、加藤にも、いつが政府に抱き込まれないように伝えてもらった。そこで、3月4日に原は伊藤を訪れた。伊藤はあくまで現状維持を望んだ。原は、それでは党内改革はせぬと明言されたい、曖昧な態度は党員動揺の原因となる、と迫った。しかし伊藤の態度は曖昧であり、ついに、自分の処置が不適当なら自分を見捨ててもらいたい、とまで述べた。
「伊藤冷熱常ならず、又党情に暗し」原は日記にこう書きつけた。党員と苦労をともにしたことのない伊藤が、大政党を統率する器ではないことは、原にははっきり読み取れた。
8月10日の総選挙で、政友会は190名となり、過半数を制した。原も初めて盛岡から立候補し、予想を裏切って175票対95票で清岡等に圧勝した。



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