政界を切り回す
 ~桂園時代~
 


 桂太郎が首相に
伊藤の去ったあと、伊藤は西園寺を、山県は桂太郎を首相にすすめようとした。しかし西園寺は、伊藤が真面目に考えておらず、かつ老人を閣僚候補にあげたので嫌気がさして辞めてしまった。この時井上馨という声が上がった。元老級で首相経験のない井上に箔を付けさせようという伊藤・山県の配慮であったが、あまり真面目に推挙したわけではない。当の井上は、財政難を切り抜けるのは自分だとばかりに組閣に着手したが、渋沢栄一に蔵相を謝絶され、桂は陸相を断るばかりか、井上には不適任だとあからさまに説いたので、短気を起こした井上は沼津へ去ってしまった。
首相のお鉢が回ってきそうになった桂は、伊藤巳代治のすすめもきかず、自ら大磯に伊藤を訪れて留任をすすめ、逆に伊藤に心中を見透かされ、自分が組閣する場合の閣僚の相談までして帰って来た。こうして6月2日に第一次桂内閣が誕生した。当時は維新の功臣を第一流、次の世代を第二流と称したが、第一流の巨頭伊藤が退陣し、ついに第二流のトップに桂が躍り出た。なんだかんだ言っても4年半続き、日露戦争を勝ち抜いたことは、この当時が新旧交代の時代であったことを示す。
6月2日の「原敬日記」に注目すべき二つの記述がある。一つは、「在職中種々の事件があったが、多くは伊藤不決断により、ついに失敗に終わった」というもの、もう一つは「桂内閣の成立に山県の子分が奔走した。山県・伊藤両系の懸隔は、これでますますハッキリした」というものだ。以降原は、山県対伊藤の伊藤陣営の闘将として、桂の前に常に立ち塞がった。原は6月7日、総務委員のなかから、星享・尾崎行雄・大岡育造・片岡健吉らとともに、官僚出身者ではただ一人常務委員に選ばれた。星の尽力があったらしいが、星が二週間後に横死すると、原の方にグッと重荷がかかったことも否定できない。
 「野党」政友会を切り回す原
さて、桂は言うまでもなく長州出身の陸軍大将で山県の後継者である。既に歴代内閣の陸軍大臣として辣腕を振るい、他面、にっこり笑って相手の肩をポンと叩く「ニコポン主義」をも得意とする。その桂は、「元老でない首相」を表看板に、天皇には政務精励を、元老には指導を懇願する。特に伊藤は無類の「お辞儀好き」である。現に桂新首相に「超然主義は時代遅れである」とくぎを刺すとともに、「政友会を無視すれば失敗するから、万事自分に相談せよ、そうすれば妥協も可能である」と語っている。桂は、絵に描いたようにこれを利用する。その融通無碍の桂の裾をピタリと抑えるのが原敬である。明治末年の数十年間、いわゆる「桂園時代」は、「桂原時代」というべきかもしれない。
野党となった政友会は、党勢拡張の為政務調査局を設け、地方遊説にも着手していた。しかし原は、伊藤の不決断が気がかりであった。総裁と元老をどう使い分けるか。相手が桂だけに、心配は募るばかりである。だから原は、伊藤にふるって党務に従事してほしいと頼み、西園寺にも枢密院議長を辞めて党務に専念してほしいと説いた。桂内閣の滑り出しは、財政難打開のために秘密に行った外債募集が失敗し、各省の予算繰り延べで切り抜けている。順調ではないまでも、立ち直られては大変である。しかも翌年には総選挙が控えている。「総選挙は我が党内閣で」「党勢拡張の早道は政権獲得」これが原の一貫した考えである。そして藩閥官僚内閣を打倒し、政党政治の世に持っていこうとする。だから、総選挙までに桂内閣を倒すことが目下の急務なのである。
 煮え切らぬ伊藤
原がいかに上記のような事を進言しても、当の伊藤は乗り気ではない。伊藤は桂内閣末期にブランデーをひっかけて議会に臨み、「ブランデー演説」として攻撃され、また関西遊説のときは、「神戸の宴会」で酔余、政府をも友会をも罵倒する。そこへ9月になると、アメリカのエール大学から名誉博士号を贈るというので、伊藤は渡りに船とこれに応じた。当時はロシアの南下策が活発で、日本国内では日英同盟論と日露協商論が対立し、日露協商論者の伊藤は、井上の勧めもあって、さらにロシアに回ってその意向を打診しようとした。
創立して1年もたたぬ政友会にとって、総裁の外遊は一大事である。伊藤は党を見捨てるつもりか―天皇すらそう考えた。7月10日に大阪の北浜銀行頭取に就任していた原は、9月17日に大阪より帰京の途中、新聞で伊藤の外遊を初めて知り、①外遊中止か、②西園寺を副総裁とするか、の二案を立てた。しかし結局は総務委員長を置き(松田正久選任)、総務委員は10名、うち尾崎・原・大岡の3名に片岡を加えたものが常務員となり、原は幹事長も兼ねた。出発に際して伊藤は党員に是々非々主義を唱え、不在の間紛擾を起こさぬよう強調した。しかし尾崎・原らの硬派は、留守間に思う存分政府を攻撃せよという暗示だともとっている。だが、重大な事は、伊藤が党員に内密で、次の第十六議会における政府の政策を是認していたことである。これが後に問題化するが、とにかく伊藤は12月の議会までに帰朝する予定であり、9月18日に外遊の途にのぼった。



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