政界を切り回す
 ~逓信大臣となる~
 


 逓信大臣
原が大坂毎日新聞の後始末をし、小松原英太郎を後任社長として上京したのが、星享辞職の10日ほど前。19日に正式に総務委員長兼幹事長に就任し、ついで22日、星のあとをついで、待望の逓信大臣となった。
星の辞職で凱歌を奏した貴族院は、第二弾として第15議会に増税反対で政府いじめにかかった。親分の山県が保養で京都の別荘にいるのを幸いに、猛攻を開始する。この増税は北清事変の軍事費で、山県もまたやむを得ぬとしたところであるが、政府がその一部を産業発展にふりむけようとしたのと、伊藤が行政財整理を公約したのを奇貨として、整理を断行し、増税は最小限にして事変費のみあてよというのである。もとより政策の是非を超えた感情的な対立である。伊藤は、西園寺枢密院議長を首相代理として病気療養につとめていたが、議会開会前に復任し、19001年正月5日に訪れた児玉淳一郎に、「この議会を最後の議会としているから、いかなる論難攻撃があっても不動の態度で対抗する覚悟である。党員は毫も遠慮するに及ばぬが、謙譲の態度はとってほしい」と伝えた。
 政府vs貴族院
上記の事は子分の芳川顕正が京都の山県へすぐ報告する。次いで子分の清浦奎吾もまた、「憲法施行以来、かかる性質の内閣を議会に迎えるのは今度が初めてである。たんに無事平穏に通過せしめては後日の為にならぬ。かといって猪突猛進すれば貴族院の体面にもかかわる。ここらが苦心の点です」と、激越な手紙を出し、軍医総監をつとめた石黒忠悳ですら、政友会は傍若無人で、政府の政策は猫の目の如くかわると言い、「これは国家の大失態で、貴族院がいかなる態度をとるか、矛先の向け方は定かではないが、多少の非難攻撃は免れないであろう」と山県に報じている。政府と貴族院の衝突は必至だった。
貴族院の動向を察して政府も対策を練ったが、道は二つよりほかはない。
①、強硬策に出て貴族院を改革する ②、総辞職して衆議院をバックに貴族院と対立するか
このいずれかを選んでいれば、政界はよほどスッキリとした形になったであろうが、事実はそうではなかった。衆議院を通過した増税案が貴族院の日程に上ったのは2月23日、伊藤は「七重の膝を八重に折って」通過を要請したが、委員会はただ一回の審議で否決して本会議に送った。政友会員は、あちこちで小集会を開いて憤慨し、衆議院を解散して貴族院を改革せよとの意見が強かった。原敬はこれに反対した。甲斐さんは成立当初の政友会にとって不利である、と。閣員も同意した。このあたりから、新米大臣原の鋭鋒があらわれはじめる。
 伊藤の辞職
この貴族院の反攻は、貴族院議長近衛篤麿や勅命で帰京した山県・松方の調停でもおさまらず、ついに詔勅でおさえた。貴族院の改革は行われなかった。原はこれを遺憾とした。原にしてみれば、華族などは政治を解せず、祖先の七光りで高位にある厄介な存在に過ぎない。後年彼は貴族院議員を「錦を着た乞食」と罵倒し、その活動家を政友会陣営に引き込み、いわゆる縦断政策をとった。
詔勅でようやく切り抜けた多難な議会を終えると、議会を通過した予算に対し、渡辺蔵相が、公債財源による事業の一切中止と言う爆弾提案をした。渡辺は、こうしなければ「帝国前途の命運に関する」ほど財源が切迫しているという。閣僚は、驚きかつ憤慨し、蔵相排撃問題まで起こった。この間、閣議で渡辺を追求し、可能性も打診せずに公債募集論を唱える大蔵省を難詰し、代案を出して充分財政上見込みがあるとしたのは原であり、その意見が閣僚をひっぱった。しかし伊藤は決断しかね、元老らが国家の重責を分担せねば投げ出すとか、山県に辞職すると訴えるなど、平素の勇気も消散していた。
「首相の以降は時々変更して不明である」原は自身の日記に書いている。
5月2日、伊藤は辞表を出し、10日に聴許された。



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