政界を切り回す
 ~伊藤首相の泣き所~
 


 渡辺国武の「心機一転」事件
伊藤に組閣の大命が下ったのが9月29日であるが、伊藤は自らの病気と、政友会の基礎が固まっていないことから、一旦固辞した。が、10月7日に再び大命が降下した。それまで伊藤は星享や伊東巳代治らと組閣について協議していたが、翌8日に渡辺国武の「心機一転事件」が起こる。伊藤によれば政友会は党首独裁であり、大臣の任免に党員の口出しを禁じていたにもかかわらず、渡辺は、伊藤が渡辺の嫌う星や伊東らと相談し、創立委員長で仮総務委員長たる自分には何ら相談なく、渡辺が望む蔵相には井上馨を予定しているというので、渡辺は自分の処遇ともひっかけて党の将来が案ぜられる、自分は伊藤を見損なったから絶交し脱党すると息巻いたのである。
この事件は党員が渡辺をなだめ、彼もようやく散歩中に心機一転したからと詫びを入れておさったが、おさまらぬのは党員である。さらにその後も渡辺の不遜な態度に事態は悪化したが、伊藤が自分の責任であるとして党員を慰撫し、ようやくおさまった。この間伊藤は井上に、党員が国家を思わず、自己一身の事のみ考えるとこぼし、「泣くにも泣けぬ」と苦境を打ち明けた。渡辺は藩閥の背景のない長野県の出身。一生独身を通した変わり者で、参禅して「侠禅」と称したが「狂禅」と悪口された。結局渡辺は大蔵大臣におさまったが、総務委員は外された。
 伊藤vs山県
伊藤内閣は10月19日に成立した。原は閣僚にはなれず、幹事長に就任した。しかし、渡辺の事件で、伊藤の党首独裁性は揺らいだ。すでに「維新の元勲」は「野武士」と称された旧自由党員を統御するにたえないことの一端を暴露していた。前門の狼を追い払って息つく暇もなく、後門の虎―貴族院が手ぐすね引いて待っていた。
この当時の政界の二大勢力は、伊藤系と山県系である。山県系の貴族院は政党が大嫌いときているから、伊藤の政友会を敵視すること甚だしい。そこへ逓相星享の涜職事件が起こった。星という人は「怪傑」の名がぴったりする策謀の達人、わが国最初の代言人(弁護士)で当時の新知識、そのうえ「押し通る」という異名をとった押しの強さがあり、100キロを超える巨体で政界を疾駆した自由党―憲政党随一の実力者である。彼は党の領袖として子分を養う必要上、しばしば政府と取引して利剣を得、これを子分に散じた。特に山県内閣の時はひどく、政界を毒したのは山県の政党操縦資金と星の利剣漁りだとまで言われた。星は横浜築港の委員長となって驚異的な大計画を立て、国庫補助金引き出しに動いたし、子分も東京市清掃請負人から賄賂を取り、さらに塵芥請負事件が起こった。「毎日新聞」の主筆島田三郎が公党をもじって「公盗の巨魁星享」と攻撃し、貴族院は伊藤に星の免職を迫った。政友会は既成政党の腐敗を強制するために作ったのではないか、と。この指摘は伊藤の急所を突いた。星は12月21日に辞職したが、これらの事が関連して、翌1901年6月、東京市参事会の会議後、剣客伊庭想太郎の為に刺殺された。享年53歳であった。


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