政界を切り回す
 ~政友会結成~
 


 伊藤からの誘い
憲政会の党首就任勧告を蹴って、伊藤が新党結成の考えを回答したのが明治33年(1900)7月8日、原が株主総会と6千号の祝宴を終えて上京したのが7月20日、23日に伊藤に会って「新生党結成につき、きみの来京を待つ」との話。8月15日に再上京して伊藤から、新政党に関する一切の事務を担当することを依頼される。
原は新党結成の枢機に参画したのである。従来は星享や法制家としての伊藤巳代治が参画していたが、これからは原の比重が増す。その事務的才幹は早くも現れ、結成の総参謀長をもって自任していた渡辺国武は、8月17日に伊藤に宛てて「自分らは不慣れで十分の見込みもつかぬが、原はずいぶん練達の士と見受けたから、全て一任した」と報じている。
 政友会結成
9月15日に政友会は結成、発会式を挙げた。その4日前、原は伊藤に会って大阪毎日との関係をどうすべきかを尋ねたところ、伊藤は、当面は現在のままでいてほしいと述べた。これは原が、自分の将来を考えて探りを入れたのだろう。このため原は発会式には正式の党員ではないから出席を見合わせ、午後の園遊会のみ出席した。
政友会の設立を見た山県首相は、辞意をますます固めた。もともとこの年の初めに辞職する予定が、北清事変の為ノビノビとなり、その間、青木周蔵外相が首相を差し置いてロシアを撃つべしと上奏したり、また日本の軍隊をドイツの司令官の指揮下に入れたりして伊藤に攻撃され、また伊藤の新党結成に山県が難色を示したりして、伊藤・山県の関係は、かなり悪化していた。そこで山県は、政友会の基礎がまだ固まらないのに乗じて政権を伊藤に渡し、政友会の内部分裂(大臣の椅子を巡る伊藤直参派と旧憲政党の対立)を策したらしい。

 伊藤内閣成立
このころ原は、しきりに伊藤に組閣を進めていた。それは、内閣を組織して党勢を拡張しようとする、原が生涯持ち続けた構想のあらわれでもあり、同時に、その場合に伊藤が彼を閣僚にすると予約していたこともあずかって力があろう。山県が辞職したのは9月26日であるが、原はこの日、大阪から井上に再度貴族院入りを要請している。その理由は「自分も来月には新聞社を他人に譲って党務に専念したいが、貴族院にでも入らねば議場の事情が分からず、政友会でも下働きに過ぎぬことになる」というにある。伊藤がその直参の身で政友会を結成したのならともかく、すでに旧自由党系が合流して民権運動以来の名士も多いなかで、原にも若干の焦りがあったのだろう。だから、伊藤内閣が成立する(10月19日)直前の13日に、自分が閣僚の選に漏れたことで、伊藤が前約に背いたと日記に書いている。


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