政界を切り回す
 ~日本と原の転機~
 


 ロシアと日本の対立
明治33年(1900)は、原が「大阪毎日」との満3年の条件を終える年であり、日本にとっては対外的にも国内的にも一つの転機であった。アフリカ分割を終えたヨーロッパ帝国主義列強は、アジアに向かって競争的に進出する。
特に中国大陸の清朝は、三国干渉を契機に、列強のあくなき野望の下に晒された。明治32年(1899)義和団が山東地方に蜂起し、翌年北京の列強公使館を包囲、連合軍の出動という、いわゆる北清事変である。地の利を占める日本は、連合軍の最強部隊として出撃し、経済的未発達を軍事力でカバーして、中国分割に乗り出した。こうして、事変を期に満州を占領したロシアと、尖鋭に対立することとなった。
 伊藤博文の新党結成
このような国際情勢は、自然と日本の挙国一致体制を要請した。政界は、すでに藩閥対政党の争いから、両者の妥協の段階に入っていた。しかし、政党はあくまで藩閥政府の「傭兵」であり、提携するや猟官と利剣漁りで堕落し、提携が破れると内閣が倒れるという不安定さである。憲法制定当時は、日本における政党政治を否定した伊藤も、「傭兵は頼むに足らぬ、手兵でなくては駄目だ」と悟った。しかし彼の構想は、あくまで政府を助ける政党である。彼の企図はすでに二回挫折したが、今や内外の危機に立って、自ら模範的正当を組織し、既成政党の弊害を打破するとともに、実業家を広く包括して、その利害を政治上に発言せしめようとし、明治32年春より全国遊説の途にのぼった。このころ、山県内閣と提携していた憲政党(旧自由党系)は、利用するだけ利用した山県に煮え湯を飲まされ、明治33年5月末に提携を断絶、体質改善の為に伊藤を総裁に迎えようとした。伊藤はこれを謝絶し、結局憲政党が解党して伊藤の傘下に馳せ、9月15日に立憲政友会が結成された。
 原、貴族院議員を望む
伊藤の政党結成を財政面で支援していた井上馨が、大阪の財界に策動するため来阪したのは明治32年8月、その16日の原の日記に「井上伯大阪滞在中にて兼約あるに付面会して将来政事上に関し内談したり」と書かれている。9月25日には、さらに井上と大阪で会い、伊藤が政党を改造し、山県首相に後を譲らせることを井上が話したとある。これは、原敬の一生にとって最大の転機が訪れたことを意味する。原の新聞社社長就任は、もとより一時的なものであった。そして、陸奥の死と政友会の結成は、彼は事務官僚から職業政治家に転身する機会が訪れたことを意味する。しかも、官僚政治家として大成する道が近いにもかかわらず、政党政治家の道を選んだのは、政党内閣の必然性を認識したからであった。
当時大阪毎日紙上に発表した論説から見れば、原は政府と政党の協力から一歩進んで、政党内閣を樹立することを希望しており、伊藤の新党結成には賛成で、山県現首相についで井上が首相となり、その庇護下において結党に踏み切るのが良いと考えていた。その原にとって一つの問題は、自分が新党内でいかなる地位を占めるかという事であった。
原は明治33年2月28日に井上宛書簡に貴族院議員に推薦してほしいとあり、さらに9月26日も再度要請している。生涯爵位を辞退し続けた原には意外な事実であるが、彼が生涯で最大の転機を迎えていたことは明らかである。


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