政界を切り回す ~一流の新聞人~ |
9月16日付の「入社の辞」で原はこう述べている。自分の入社は拡張改良の実をあげ、世に裨益するためである。最近の政界は、内政は立憲政治の主旨を誤り、多数圧倒・党類乱造・政鋼紛乱であり、外交は硬論を装うて軟の軟、対外関係を悪化して戦後経営は空論に帰そうとしている。自分の主義は是々非々(党派や偏見によらず、よいことはよい、悪いことは悪いとすること)で、政治の圧迫にも民論にも主義を曲げない。いまや商工業は勃興してその発達を図り、国家富強の基礎を立てる時機 に、この主義を紙上に展開したい、というものである。
明治31年6月に成立した、 わが国最初の政党内閣=隈板内閣について、原は大隈・板垣両人が平素の主張に反し、陸海軍大臣に藩閥軍人をあてたことを非難して政党内閣の実質無と攻撃したが、反面、不十分ながらも政党内閣が成立したこと自身を喜んだ。だが、この内閣は原の予測通り、わずか4カ月の短命で倒れた。この年の11月に山県有朋が内閣を組織し、実力者星享を通じて金銭の力で自由党を操縦し、政界を腐敗せしめたことを「責任なき多数党の弊」と痛論した。
それは、漢字制限と部分的な口語体の採用・外電欄の充実(海外通信員の派遣・在外外務官僚に通信依頼など)・名士による時事解説・婦人記者の採用・地方付録・家庭欄や文芸欄の充実などである。 その結果、読者数は3年間で3倍に増えた。のちの社長本山彦一は「原が終始新聞の経営に当たれば、天下無敵であったろう」とまで評したほどである。原の現実主義者としての鋭敏な感覚と不抜の実行力が、遺憾なく示されたのだ。当時世論の形成に大きな役割を演じつつあった新聞経営にあたり、また大阪財界人との顔つなぎをしたことは、原の政治生活に大きな財産となった。 |