政界を切り回す
 ~一流の新聞人~
 


 大阪毎日新聞へ
原が外務省を辞めたのは、自分の意思ではなかった。おそらく原は、主義の異なる人物の下には立ちたくなかったのだろう。辞める少し前、「大阪毎日新聞」から招聘があり、陸奥もすすめたので受諾した。この新聞は大阪財界の巨頭藤田伝三郎・松本重太郎らの共同出資になり、実業新聞とも自称したほどであったが、世界情勢の変化と共に体質改善を迫られ、原に着目した。入社条件も原流で、①新聞関係のいっさいの事務の委任、②聘傭年限は3か年、③年俸6千円(当時の大臣級、原はあと1年官界にいれば恩給が付くため、それを犠牲にしたから当然だと説明したという)などである。そして原は編集総理となった。明治30年(1897)9月、原は41歳であった。
9月16日付の「入社の辞」で原はこう述べている。自分の入社は拡張改良の実をあげ、世に裨益するためである。最近の政界は、内政は立憲政治の主旨を誤り、多数圧倒・党類乱造・政鋼紛乱であり、外交は硬論を装うて軟の軟、対外関係を悪化して戦後経営は空論に帰そうとしている。自分の主義は是々非々(党派や偏見によらず、よいことはよい、悪いことは悪いとすること)で、政治の圧迫にも民論にも主義を曲げない。いまや商工業は勃興してその発達を図り、国家富強の基礎を立てる時機
に、この主義を紙上に展開したい、というものである。
 政界へ物申す!
原が社長になったのは翌明治31年9月であるが、新聞人としての活動は、一は政界への注目であり、他は経営改善であった。原は議会政治に失望したが故に、議会に基礎を持たぬ政府を不可とし、政党の改良は時勢の変化によって自然になされるとみていたし、自由党が遼東還付を是認して伊藤内閣と提携した事を、不充分ながら国政の一進歩とし、自由党の将来に注目し始めた。また進歩党が松方内閣と提携して党員の多数を高級官僚に送り込んだのを見て、政府が政党を蛇蝎視するのをやめ、政党が党勢拡大に成功したことを強く認識した。これはのちの原の政友会入会や、政略に大きな影響を与えるが、同時に原は、政党の妥協が政策によらず猟官のためであり、かくて政党の官僚化現象が促進されることをも見た。これが入社直後の10月に7回にわたって連載された「政府と政党」に述べられたところである。
明治31年6月に成立した、
わが国最初の政党内閣=隈板内閣について、原は大隈・板垣両人が平素の主張に反し、陸海軍大臣に藩閥軍人をあてたことを非難して政党内閣の実質無と攻撃したが、反面、不十分ながらも政党内閣が成立したこと自身を喜んだ。だが、この内閣は原の予測通り、わずか4カ月の短命で倒れた。この年の11月に山県有朋が内閣を組織し、実力者星享を通じて金銭の力で自由党を操縦し、政界を腐敗せしめたことを「責任なき多数党の弊」と痛論した。

 経営者としても辣腕
新聞経営者としても、原は卓抜な見識を示した。
それは、漢字制限と部分的な口語体の採用・外電欄の充実(海外通信員の派遣・在外外務官僚に通信依頼など)・名士による時事解説・婦人記者の採用・地方付録・家庭欄や文芸欄の充実などである。
その結果、読者数は3年間で3倍に増えた。のちの社長本山彦一は「原が終始新聞の経営に当たれば、天下無敵であったろう」とまで評したほどである。原の現実主義者としての鋭敏な感覚と不抜の実行力が、遺憾なく示されたのだ。当時世論の形成に大きな役割を演じつつあった新聞経営にあたり、また大阪財界人との顔つなぎをしたことは、原の政治生活に大きな財産となった。








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