青年期 ~キリスト教に入信~ |
原はなぜ入信したか。それは必ずしも生活の為のみではなかったようだ。マリンが致命聖人(殉教者)の講話をすると、原は感激して、自分もこの道の為に命を捧げようと誓ったという。この真剣さは、官吏としては出世の望みが少ない東北人の、生き方への模索であったといえる。翌1873年4月、原は17歳で洗礼を受け、ダビデ(美貌で剛毅なユダヤ王の名)という名を貰っており、後年も彼の質素な書斎には聖母像がかけてあり、新聞記者にも、自分は宗教について一つの考えを持っていると語っている。しかし、入信の動機は生涯語らなかった。
新潟着以来、東京を思うこと切なるものがあったところへ、新潟県令楠本正隆が「いつまでも外人の奴隷でいないで、フランス語ができるなら司法省法学校にでも入ったらどうか」とすすめた。5月、エブラルの東北伝道に随行したついでに帰郷し、東京遊学を相談する。前年、家禄奉還で一時金が入った原家では、官費の学校ならという事になる。この年の6月30日、原は分家して平民となった。前田蓮山は、分家の理由を、試験に失敗すると家名に瑕がつく、という配慮であったろうという。 9月、 原は決死に覚悟で家郷を後にし、徒歩で新潟まで廻ってエブラルに遊学の許しを請い、その恩義に感謝し、エブラルが不便がらぬように1人のコックを同行させた。この義理堅さは、原の生涯に一貫していた。また原は、キリスト教の知識を決してひけらかさなかった。 ある人が、「貴方は禅をおやりになりますか」と問うたのに対し、「禅をやらねば悟りが開けないという人は気の毒な人だ」と、さりげなく答えている。これも原流である。原は、けっして「ぶらない」人で、自己の体験を基礎に、着々と行動に移す人物である。 |