青年期
 ~キリスト教に入信~
 


 キリスト教へ入信
原と栃内は、栃内の縁戚の高島嘉右衛門の英学塾を横浜に訪れた。高島は易断家として有名で、のち大実業家になった人であるが、二人の学僕志願は満員で断られた。それから半年間の原の消息は不明であるが、その年の暮に単衣三枚重ねという異様な風体で原は、フランス人宣教師マリンの経営する麹町の伝道師養成所に姿を現した。当時のキリスト教は表面禁止、裏面黙認で、布教の必要上、塾生は無料で宿泊させた。塾には、官立の学校に入るのも癪だし金もいる、西洋人とコネを付けておけば将来何かと便宜もあり、薩長人の鼻を明かすこともできると考える東北人が多く、課業はお義理で聞くだけで、部屋に帰ると議論に火花を散らした。かつて無口な原も、ここでは大いに議論した。
原はなぜ入信したか。それは必ずしも生活の為のみではなかったようだ。マリンが致命聖人(殉教者)の講話をすると、原は感激して、自分もこの道の為に命を捧げようと誓ったという。この真剣さは、官吏としては出世の望みが少ない東北人の、生き方への模索であったといえる。翌1873年4月、原は17歳で洗礼を受け、ダビデ(美貌で剛毅なユダヤ王の名)という名を貰っており、後年も彼の質素な書斎には聖母像がかけてあり、新聞記者にも、自分は宗教について一つの考えを持っていると語っている。しかし、入信の動機は生涯語らなかった。
 新潟地方伝道に随行
教会に寄寓した原は、ここで1874年の正月を迎えた。「民選議員設立建白」の出された月で、翌月には佐賀の乱がおこる。新政権最大の危機である。この4月、原は「洋人の奴隷」となることを嫌った同僚の嘲罵をよそに、マリンの友人エブラルの新潟地方伝道に随行する。交換条件はフランス語教授である。これは原の生涯に大きな影響を与えたし、エブラルは博識多能、のち条約改正には陰の力となった。また親切で、数か月後にもう一人学僕を置いてもよいと言ったので、原は郷里に帰って弟の誠をつれてきた。なお鮎川義介によると、ビリョン神父も京都で書生代わりに原や富井政章を使い、フランス語を教えたという。
 遊学を決意
1875年、大久保利通政権は危機を乗り切るために大阪会議を行い、その結果4月に立憲政体漸進の詔が出された。民権運動に対する藩閥政権の譲歩である。原敬の生涯にも一つの転機が訪れた。
新潟着以来、東京を思うこと切なるものがあったところへ、新潟県令楠本正隆が「いつまでも外人の奴隷でいないで、フランス語ができるなら司法省法学校にでも入ったらどうか」とすすめた。5月、エブラルの東北伝道に随行したついでに帰郷し、東京遊学を相談する。前年、家禄奉還で一時金が入った原家では、官費の学校ならという事になる。この年の6月30日、原は分家して平民となった。前田蓮山は、分家の理由を、試験に失敗すると家名に瑕がつく、という配慮であったろうという。
9月、
原は決死に覚悟で家郷を後にし、徒歩で新潟まで廻ってエブラルに遊学の許しを請い、その恩義に感謝し、エブラルが不便がらぬように1人のコックを同行させた。この義理堅さは、原の生涯に一貫していた。また原は、キリスト教の知識を決してひけらかさなかった。
ある人が、「貴方は禅をおやりになりますか」と問うたのに対し、「禅をやらねば悟りが開けないという人は気の毒な人だ」と、さりげなく答えている。これも原流である。原は、けっして「ぶらない」人で、自己の体験を基礎に、着々と行動に移す人物である。






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