原敬とは ~力の政治家~ |
徳富蘇峰が原の組閣ぶりを「日常茶飯事の如し」と評したが、彼こそ良い意味での「その日暮らしの名人」であった。だから反面では、原敬には政治的理想が無い、と評される。原は「理想を掲げると、世間の反対派が攻撃ばかりするので実行できない」と言うのである。大きな理想を示して失敗するより、現実を見つめて実行で示せというのが、原流なのである。 御手洗辰雄は、「原内閣を通じて、僕らすぐそばでずっと見ているが、その時はこんなひどい奴があるかと思ったが、よく後で考えてみると、彼の目標は藩閥官僚の勢力というものをどうしても叩き潰さなければならない、そうして政党内閣制というものを作る、それが先生の理想であったと思う」といい、党の結束―指導権の確立―政友会勢力の扶植―絶対多数というコースを進んだという。
「僕は総理大臣として及第点を与えることができる人は原敬以後には一人もいないように思っている。少なくとも原敬だけは政治家だったような気がした。それは高段者の碁打ちが、自分の置く石の効果を一々知って石を打ち、将棋の高段者が持ち駒を生かして使うのに似ている。他の人は気が付かないうちに、彼は日本の地位を自分の思っているところへ動かそうとしている。そこに政治家らしい思想と実力を持っているのを感じ、信頼できる政治家だと思った」 このような原敬のやり方は、統率の才に溢れていることにも起因してくる。彼がいかに地方の政情に通じていたか。東京では貴衆両院議員の妾宅まで知っていたという。しかも、よく人の面倒を見、恩威が並び行われている。(反対派には厳しかったが)彼はその上に、読みの確かさで党員を否応なしにひっぱっていた。政治に対する粘っこいばかりの執着・愛着は、西園寺公望にも高橋是清にもない、原敬独特のものであった。それゆえにこそ、彼の時代に政友会は大を為し、彼の死によって政友会は分裂したのだ。 |