原敬とは
 ~力の政治家~
 


 世間の評判をものともせず
原が1900年に政友会に入ったことは、将来への一大転機であった。それは、やがて政党政治の時代が来るという予想に立ってのことであり、彼こそそれを推進した政治家であった。後藤新平に対して「我々は東北の片田舎に生まれて今日あるものであるから、藩閥者流のごとく女々しい態度はとれぬ」「ぐずぐずするのも馬鹿らしい」等と語っているように、彼は目的を直視し、そこに至る過程を充分計算して巨歩を運んだ。原は前田蓮山に、政界を引退した後政治哲学を著述したい、と語っているが、その経験を租借し、独自の行動原理を立て、それを基礎として不断に邁進する。たとえば、彼の大きな見通しは、「藩閥や官僚の政治は長続きしない」ということであり、政権に近づく方策は、たとえ藩閥官僚と妥協しても党勢を拡大し、政党の力によって相手を屈服させることであり、政権を取れば、我が党内閣で選挙を行って、一層党勢を拡大することである。こうして、彼は山県有朋の牙城を一歩一歩と崩していった。桂園時代には、原は表面は「妥協屋」「官僚派」と見られているが、実は彼ほど藩閥打破に力を尽くしたものは見当たらない。世間の評判など、物とも思わず、自己の計算を実現していくのが、原敬という政治家の本領である。
 現実感覚に優れた政治家
原敬という政治家の本領は、優れた現実感覚を持ち、大きなことを小さくして、片っ端から片付けてゆくことである。あるとき、床次竹二郎の娘と中橋徳五郎の息子の夫婦が離婚し、両家の間がまずくなった時、前田蓮山が「困った問題ですね」というと、原は「ナニ、その娘を早くどこかに縁付けることだ。そうすれば問題はなくなる」と答えたので、前田は張り合い抜けがしたが、これこそ人情の機敏に触れた親切な考えだと感服したという。
徳富蘇峰が原の組閣ぶりを「日常茶飯事の如し」と評したが、彼こそ良い意味での「その日暮らしの名人」であった。だから反面では、原敬には政治的理想が無い、と評される。原は「理想を掲げると、世間の反対派が攻撃ばかりするので実行できない」と言うのである。大きな理想を示して失敗するより、現実を見つめて実行で示せというのが、原流なのである。
御手洗辰雄は、「原内閣を通じて、僕らすぐそばでずっと見ているが、その時はこんなひどい奴があるかと思ったが、よく後で考えてみると、彼の目標は藩閥官僚の勢力というものをどうしても叩き潰さなければならない、そうして政党内閣制というものを作る、それが先生の理想であったと思う」といい、党の結束―指導権の確立―政友会勢力の扶植―絶対多数というコースを進んだという。
 統率の才
武者小路実篤は原敬についてこう語っている。
「僕は総理大臣として及第点を与えることができる人は原敬以後には一人もいないように思っている。少なくとも原敬だけは政治家だったような気がした。それは高段者の碁打ちが、自分の置く石の効果を一々知って石を打ち、将棋の高段者が持ち駒を生かして使うのに似ている。他の人は気が付かないうちに、彼は日本の地位を自分の思っているところへ動かそうとしている。そこに政治家らしい思想と実力を持っているのを感じ、信頼できる政治家だと思った」
このような原敬のやり方は、統率の才に溢れていることにも起因してくる。彼がいかに地方の政情に通じていたか。東京では貴衆両院議員の妾宅まで知っていたという。しかも、よく人の面倒を見、恩威が並び行われている。(反対派には厳しかったが)彼はその上に、読みの確かさで党員を否応なしにひっぱっていた。政治に対する粘っこいばかりの執着・愛着は、西園寺公望にも高橋是清にもない、原敬独特のものであった。それゆえにこそ、彼の時代に政友会は大を為し、彼の死によって政友会は分裂したのだ。







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