原敬はその生涯を江戸~明治~大正という、日本史史上まれに見る激動の時代を生き抜いた人である。明治維新の際、何しろ賊軍の汚名を受けた東北の藩の出身であり、更にはキリスト教徒になり、新聞記者―官僚―新聞社社長ー政党人となり、藩閥官僚政治から政党政治へという大転換を成し遂げた人物である。原敬の人生は、大きな時代の転換を成し遂げる過程において、実に並々ならぬ波瀾があった。
明治維新は、日本全土を尊皇討幕派と佐幕派という二つの地区に塗り替えた一大動乱である。青春の志に燃える佐幕藩の原敬青年にとっては、薩長藩は憎悪と、いくらか羨望の対象であった。佐幕藩から台頭した人物の中には、対抗意識を燃やしながら不遇に終わった者もあれば、「薩長の養子」となって大臣・大将となった者もあった。原の場合は、その妻は薩摩の中井弘の娘であったが、中井は藩閥臭の少ない人であり、原も義父にあまり頼らずに、「藩閥何するものぞ」という負けじ魂を持って実力で着々と地位を築いていった。彼がキリスト教徒から新聞記者になり、その末期に大東日報の主筆に迎えられて、次に天津領事となったころ、その「明治政府の幹部候補生」としての地位は定まったかに見えた。それでも、彼を頼る郷党の後輩に「お互いの国柄では官途に就いても他人の信用を得難いから、それを考えて進退されたい」と答えているほど、30歳前後の彼の心の中には、自己の実力からくる洋々たる前途と、出身藩からくる前途への不安が、ないまぜになっていたのではなかろうか。その原は、同じ佐幕藩の紀州出身の陸奥宗光という、良き親分の下にあって、40歳そこそこで外務次官にまでなった。
明治維新というのは、激しい新陳代謝の時代であった。30歳代の参議(後の大臣に相当)、20歳代の県令(知事)がたくさん生まれる。彼らは官僚としての基礎的知識も技術も身につけていない。しかし、その中でも優秀な人材たちは、こせこせした事務処理技術の末に走らず、大所高所から物を見ることができた。そして、やがて彼らが政権を担当すると、有能な補佐役が必要となった。伊藤巳代治はその一人であるが、彼の1900年頃の日記には、元老などは若手の補佐によって今日の地位を得たので、もはや60歳前後になれば第一線に立てない、という意味の記述がある。原もまた外交官時代には猛烈に勉強した。山路愛山の「原敬論」に原自ら批評を加え、「自分はパリにいた頃、山路が言うように、外交官ではなく内交官だなどと言ったことはない。当時ほど外交上の学問と実際を研究したことはない。自分の蔵書の大部分は外交関係の図書で、外交官を辞めたのは偶然のことで意思ではない」と書き込んでいる。盛岡の図書館のような書斎を見せてもらった政治評論家の御手洗辰雄が、その膨大な蔵書の数冊を取り出し、どれにもアンダーラインや書き込みまであるのに、完全に尻尾を脱いだと回想している。このことは、原が従来と違った、新しい外交官たろうとしたことを物語っている。しかしかれは、読書研究や事務家的手腕に溺れず、政治家として、無類の素質と気魄を持っていた。 |