外務省時代 ~陸奥の死去~ |
また外務省入り直後の9月8日には防穀令損害賠償談判で漢城(ソウル)に乗り込んだ。これは朝鮮が米の流出を憂えて輸出を禁止し、日本側商人が予約した米が得られずに損害賠償を要求したもので、要求額14万円、交渉がこじれると、原は自分は子供の使いではない、日本政府も決意するところがあると述べて、さっさと引き上げた。翌年、大石正巳が再交渉、国王に対する無礼を咎められ、窮余の策として威嚇的態度に出た。これは袁世凱の調停で朝鮮が譲歩し、日本では大石の功績として大歓迎会を催した。原は歴史の真相のつかみがたき例とした。 原と陸奥、この二人のキレ者は、大臣と局長という間柄で論争もした。原の明治27年8月29日の日記に、陸奥外相就任当座の回想談がある。陸奥は官舎の書斎で、条約改正に着手したい、と原に漏らした。 原は「歴代外相が不成功に終わったものを、迂闊に着手するのは考え物です。」というと、陸奥は「自分のこれまでの経歴から、このことに着手せぬわけにはいかぬではないか」と切り返す。するとに原は、「それでは改正案は完全な対等案である事が必要です。歴代外相はできる範囲で改正しようとしたから、改正は可能でも世間の非難を浴びて失敗しました。だから、やるなら完全な対等案で談判を開かれたい。そうして成功すればこの上なし、失敗しても世論に背くという非難は起こらないでしょう」と伝えた。
「陸奥幕下のキレ者原は、いちいち陸奥の意にかなうようにやる男ではない。彼は一旦こうと言いだすと、どこまでも通さねば置かぬという強情我慢なところがあり、これには陸奥も持て余した。しかし、この強情な主張は、いつも冷明な判断を経ている。彼は強情であり、かつ聡明であるから、主張が行われると否とに関わらず、事後の事実に照らすと多くの原の立言が当たっているのを悟ったと中田敬義も言っている。ここが陸奥の気に入り、信用され重用された所以であろう」と。 また、前田蓮山もこんな中田の談を述懐している。ある日、原が重大問題の書類に大臣の捺印を求めた。陸奥がしばらく考えて反対意見を述べると、原はもってのほかとばかりに陸奥に反駁して捺印を迫った。陸奥は激昂してどなりつけた。 「自分は大臣、君は属僚だ。大臣の命令に服従できぬなら、辞職したほうが良かろう」 しかし、原はそのまま引き下がるような男ではない。 「命令と言われるなら従いますが、議論としては大臣の説に服することはできません」 器量の狭い上司なら、原を遠ざけたであろう。原の慧眼は、陸奥さえも凌駕している感があったとさえ感じる。 日清戦争外交では、陸奥は怪腕をふるったが、原は陰の力として働いた。戦後の台湾経営のため明治28年(1895)6月13日に台湾事務局が設けられ、外務省からは原が出た。さすが法制通の伊藤巳代治にも適当な案がなかったとき、原は意見書「台湾問題二策」を提出した。内容は下記の通り。 甲 台湾を植民地とみなし、台湾提督の権限を大にし、台湾を自活の域に達せさせる 乙 台湾を植民地とみなさず、台湾提督にある程度の権限を与えるが、内治との同化を図る 原は乙案を主張した。どのみち台湾は植民地なのだが、委員会も乙案に賛成した。しかし、総督を文官・武官のいずれかにするかで激論があり、天皇の裁定で武官となった。文官になったのは原内閣の時で、この時の通信省の委員田健治郎が任命された。
この間陸奥は重病で、西園寺が臨時代理であったが、5月に陸奥は辞任した。6月、原は自ら朝鮮公使を買って出て、必死の覚悟で善後策に当たった。 原とて明治政府の一員。朝鮮支配の念は同一であるが、彼は万事に無理をせず、探偵費を引き上げて情報収集に努めた。また日本人巡査の朝鮮人殴打事件を朝鮮人軽侮の念より出たとして厳戒を内訓した。原が最も力を用いたのは京釜鉄道に関する朝鮮政府との交渉であったが、結局は成功しなかった。彼の在期は約5カ月、翌明治29年9月に松方内閣が成立して大隈が外相になると、大隈嫌いの原は辞意を決意し、10月帰朝、翌明治30年2月に朝鮮在勤を免ぜられるまで内地でブラブラしていた。夫婦関係がおかしくなり、新橋芸者浅子を家に出入りさせたのもこの頃である。 朝鮮にいた頃の原の業績は結実しなかった。しかし彼は日夜努力し、遂に官邸において卒中で倒れた。これ以後酒や煙草を辞め、2月に本官を免ぜられ、9月1日待命、この間、7月24日陸奥は死去した。 |