外務省時代 ~原と陸奥~ |
しかし、原としては良き親分を得たわけである。46歳のカミソリ大臣と、34歳の剛腹な原は、面白い取り合わせといえよう。大臣就任早々、陸奥は原を呼んでこう言った。 「別に考えがあるか、または自分に信用を置かぬなら格別、そうでないなら引き続いて秘書官の地位に留まってほしい」 原は快諾した。陸奥は原に期待して官吏の銓衡委員を命じ、省内の枢機に参画させた。銓衡委員となった原は、法科大学(東京帝大法学部)出身者を採用し、薩摩閥を排撃した。 陸奥が議会対策に専念したため、自然と原が省内一切を切り回し、事実上大臣の仕事を行ったが、常に表面に立つことを控えた。そして陸奥が世を去るまでの7年間、公私にわたって何くれとなく陸奥に相談し、陸奥没後もよくその後を見た。
またある日、原・内田康哉・阿部浩の3人が築地の料亭で酒杯を傾けていたとき、阿部が「ただの官僚ではつまらん」というや、原は「そのとおりだ。自分の志すところは宰相(大臣の意味)だ」と気焔を上げ、遂に3人まず大臣になる者が他をごることを約束した。この時証人となると申し出たのが、芸子のお辻であった。 明治23年(1890)帝国議会が開かれた。原は議会がとりとめもない議論に終始しているのを見て愛想をつかした。議会解散後、品川弥二郎の有名な選挙大干渉があり、品川辞任についで、干渉に反対した陸奥も明治25年3月に辞職し、原も辞めた。新大臣のもとで自分の経営したところが破壊されるのを好まなかったからである。この時原は733円余の退職金で、芝公園内のある売家を買った。彼は死ぬまでこの家に住み、豪華な邸宅を構えることはしなかったのである。 |