外務省時代
 ~原と陸奥~
 


 陸奥宗光
帰朝した原は、井上馨の下で農商務省参事官となった。その10月に大隈が条約改正問題で遭難し、黒田清隆内閣は倒れた。12月に山県内閣が誕生し、農商務相は岩村理俊で原は秘書官になったが、次官の前田正名一派の薩摩閥が幅を利かせていた。実は山県は、世界漫遊を終えて駐米公使になっていた陸奥宗光を呼び返して農商務相にするつもりだったが、陸奥は帰朝すると岩村に決まっていたので、怒って第一回の総選挙に立候補の準備を整えた。陸奥が民権側につけば恐るべき存在である事はわかっていた。そこで1890年5月に岩村が病気で退いた後、伊藤・井上らが対自由党工作のため陸奥を後任とした。藩閥嫌いの陸奥は、入閣して内部から藩閥打破を志したが、実際には民党に対抗する羽目になってしまった。
しかし、原としては良き親分を得たわけである。46歳のカミソリ大臣と、34歳の剛腹な原は、面白い取り合わせといえよう。大臣就任早々、陸奥は原を呼んでこう言った。
「別に考えがあるか、または自分に信用を置かぬなら格別、そうでないなら引き続いて秘書官の地位に留まってほしい」
原は快諾した。陸奥は原に期待して官吏の銓衡委員を命じ、省内の枢機に参画させた。銓衡委員となった原は、法科大学(東京帝大法学部)出身者を採用し、薩摩閥を排撃した。
陸奥が議会対策に専念したため、自然と原が省内一切を切り回し、事実上大臣の仕事を行ったが、常に表面に立つことを控えた。そして陸奥が世を去るまでの7年間、公私にわたって何くれとなく陸奥に相談し、陸奥没後もよくその後を見た。
 陸奥とともに辞職
この当時の原の性格を示すエピソードがある。ある成金実業家が広壮な邸宅を立て、新築祝いに原は陸奥に随行した。ところが庭園見物の際、原の白足袋に泥が跳ねあがった。原は富豪の面前で傍らの豪奢な座布団を取り上げ、雑巾代わりにして泥を取り、ポンと縁側に投げ捨てたというのだ。富豪たちへの面当てとみられる。後年、桂太郎が首相として富豪たちに爵位や勲章を与えてご機嫌を取ったが、原は、彼らはその蓄財で豪華な生活をしているだけで十分だと、桂の処置を苦々しく思っている。原の考えとその剛腹さを見るべきだろう。
またある日、原・内田康哉・阿部浩の3人が築地の料亭で酒杯を傾けていたとき、阿部が「ただの官僚ではつまらん」というや、原は「そのとおりだ。自分の志すところは宰相(大臣の意味)だ」と気焔を上げ、遂に3人まず大臣になる者が他をごることを約束した。この時証人となると申し出たのが、芸子のお辻であった。
明治23年(1890)帝国議会が開かれた。原は議会がとりとめもない議論に終始しているのを見て愛想をつかした。議会解散後、品川弥二郎の有名な選挙大干渉があり、品川辞任についで、干渉に反対した陸奥も明治25年3月に辞職し、原も辞めた。新大臣のもとで自分の経営したところが破壊されるのを好まなかったからである。この時原は733円余の退職金で、芝公園内のある売家を買った。彼は死ぬまでこの家に住み、豪華な邸宅を構えることはしなかったのである。






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