伊藤帰朝後間もない5月、原はパリ公使館書記官に任命され、7月いったん帰朝して10月に単身東京を発した。もはや原は明治新政府の幹部候補生で、出発前の9月26日には伊藤・山県・松方正義・井上・西郷らの晩餐会に招かれている。伝記記者の前田蓮山によると、井上か誰かが蜂須賀公使に「原は前途有望の人物だが、少し学力が不足だから、留学生として面倒を見てほしい」と書き送ったという。当時の在外公使館は金持ち大名が公使で、西洋見物かたがたの人選であったから、パリ公使館にもフランス語新聞の一枚すらなく、のちの曽祢荒助公使などはトランプ遊びに日を送ったという呑気さである。その中で原は勉強に余念がない。12月8日に井上馨に宛てた手紙のなかで、「自分の身上については1年くらいは、なるべく夜会などに出席せず、語学並びにその他学問を勉強したい旨公使に頼み、承認を得たから、公務は勉強するが、その他は一通りの事はしたい」と書いている。
当時のヨーロッパは帝国主義段階に突入し、またストライキが頻発していた。原は、マルシャルなる人物にヨーロッパ情勢を調査させて本国へ送っていた。このことを書いた1886年4月2日付の伊藤への手紙には、英仏はじめ、ストライキの事が詳細に報ぜられ、これらは不景気に乗ずる社会党・無政府党の扇動によるものであり、共和国に比して君主国の方が「仮借なき」処置をとるから、鎮圧も早いと述べている。現実主義者原敬のこの政治感覚は、後年彼が政界の第一線で活躍したときに、さらによくあらわれる。
どちらかといえば、原は当時陰鬱性の読書子であったらしい。ところが、少年時代に縁側から落ちて額に生じた白毛が拡大し始め、白髪が目立ったのをみたボウシ陸相が、これはきみが将来多数の首領となり異例の出世をするしるしだと予言したときは、大いに喜んでシャンパンをおごり、別人の如く快活になったという。パリ駐在間、原は様々な人に会った。西園寺公望もベルリンから時々パリに来遊したが、原と特に親交があったというほどではなかったようだ。85年には陸奥宗光が世界漫遊の途中に尋ねて挨拶を交わし、翌年4月には高橋是清が特許法調査に訪れた。
この間、本国では井上馨が条約改正に失敗して88年2月に大隈重信が外相となった。原は大隈を快く思っていなかったから、同年7月に井上が農商務省になると転任運動をはじめ、大晦日に帰朝命令に接し、明治憲法発布直後の2月22日にパリを去り、4月帰朝した。 |