外務省時代
 ~外務省へ~
 


 外務省入りと結婚
大東日報主筆時代は約半年に過ぎなかった。辞職の翌月の明治15年(1882)11月、原は外務省に入り御用掛となり、翌年6月には太政官文書局から官報を創刊するというので、この仕事を兼ねた。局長平田東助、課長は小松原英太郎、級友陸羯南もいた。この官報は民間新聞と論戦する目的で創刊されたが、実際は公文書発表機関となったので、ガッカリした原は関西の民情視察を願い出て、10月出発した。11月13日、岡山から広島に出た頃に帰京命令を受け、天津領事として清国赴任を命ぜられた。当時フランスは安南・トンキンを保護領化しており、その勢力は南清をうかがっていたから、フランス語のできる原に白羽の矢が立ったのだ。月給80円から一躍年俸2800円となった。
出発に先立って原は中井弘の娘貞子(当時14歳)と結婚、12月5日に東京を出発した。貞子は我儘でヒステリックであり、強情な原が貞子を背負ったりしたこともあるという。結婚生活は13年で、貞子の不義から別居し、原はかねて馴染みの新橋の二流芸者を公然と家庭に入れた。これがのちの浅子夫人で、入籍したのはずいぶんのちのことである。
浅子は美人ではないが、男勝りのしっかり者。家庭でタバコを吸うと浅子は注意し、首相官邸では吸っていたそうだ。

 李鴻章を困らせる
原は新夫人を伴って天津に着いたのは、厳寒の明治17年(1884)1月、一般の外交官が外地でノンビリ構えていた当時、原はおおいに勉強もし、敏腕も振るった。12月に朝鮮で起こった甲申政変(親日派のクーデター)の際、事破れて日本公使館は焼き討ちされ、金玉均は日本に亡命したが、その情報はいち早く清国に入るので、原はそれを刻々本国に送信し、政府の政策決定に貢献する所がすこぶる大きかった。
原はフランス公使と連絡を取る傍ら、清朝の実力者李鴻章とも巧みに接触した。原の交渉の秘訣は、自ら用事をこしらえて月に2,3度訪問し、政府の秘密すれすれで打ち明け話をすると、先方もうっかり機密を話す、というようにある。
「原敬日記」の85年1月27日に、李鴻章を訪ねた記事がある。そのとき李は朝鮮において日清両国官吏は親密だと外交辞令を飛ばし、呉太徴公使からも報告があったと口を滑らした。すると原が、「その報告を拝見するわけにはゆきませんか」というと、李は、おやすいことだと家僕に命じて取り寄せたが、間もなく公開の色面上にあらわれ、報告書を左右の手で両端を押さえ、僅かに1,2行づつをあらわして読みながら、「貴官はシナ文が読めるか」と尋ねる。原が、読めると答えると、ますます困ったらしく、「イヤ、御覧に入れるよりは、この中に書いてある要点を私が書いてあげる」と、筆をとって写した。当時は李の書を得ようとするものが多く、原は、かかる事は自ら卑下するものと考えていたが、この写しだけは面白いというので、長く保存した。
1885年3月14日に、甲申政変の後始末に伊藤博文一行が天津に着いた。原は20名ばかりと思ったが、意外な大人数。しかし原は宿舎をてきぱきと用意し、伊藤とは同じ屋根の下で3週間を過ごし、その敏腕を認められたのだ。




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