1・敗戦とGHQ 農地改革 |
第一次農地改革 |
GHQは日本軍国主義を徹底的に破壊するためには、その基礎になっている経済構造を改革しなければならないと考えていた。財閥解体はその一つだった。もう一つは農地改革である。それは、戦前日本の人口の45%を占める最大の階層である農民が最も貧しく、最も大きな不安を抱いており、それが軍国主義の宣伝を受け入れ、心からの支持を与える土壌となっていたという分析に基づいていた。 日本農林省の「革新官僚」たちも、日本の貧困の根元に小作農民の問題があることを痛感していた。自作農創設は彼らの課題でもあった。それは戦後の食糧確保の要請に合うことでもあった。1945年11月22日、幣原内閣の松村謙三農相は、農地改革要綱を閣議に提出、12月4日帝国議会に提出された改正農地調整法が18日には成立、29日に公布された。「第一次農地改革」と呼ばれるものである。不在地主が小作人に貸し付けている農地の全部と、在村地主の5ヘクタール以上の農地を、小作人の希望により、田は小作料の40倍、畑は48倍の価格で譲渡するという内容だった。買収に政府は介入せず、地主・小作間の直接交渉に任された。 |
第二次農地改革 |
GHQはしかし、これに満足しなかった。第一次農地改革案が議会で審議中の12月9日、より徹底した改革案を46年3月15日までに提出するよう政府に指令する覚書を出した。さらに、政府の3月の回答はなお不徹底だとしてGHQは即日拒否、問題を対日理事会の審議に委ねた。連合国は総司令部の上部機関として極東委員会をワシントンに設け、東京にその出先として対日理事会を置いていた。マッカーサーにとっては目の上の瘤で、GHQの方から審議を仰ぐことはめったになかったのだが、これは例外だった。理事会には農地改革の英国案やソ連案が出され、結局46年6月17日、「一層の徹底化」をGHQに勧告。GHQは同月中に「第二次農地改革」案を政府に指示した。 その内容は、在村地主の保有上限が平均1ヘクタール(北海道は平均4ヘクタール)とされ、不在地主の貸付農地全部と、在村地主の保有限度以上の農地は政府が強制的に買収し、45年11月23日現在の小作人に優先的に売り渡されることになった。また、改革の完了は「第一次案」が5年以内だったのを、2年に短縮した。この案に沿った関係法は同年10月21日、公布された。これにより、1941年には28%に過ぎなかった自作農の戸数が、1955年には70%となった。しかし、のち1965年5月には、この時農地を手放した旧地主に対して政府が報償金を支払う農地報償法が、佐藤栄作内閣の手で成立する。 |