1・敗戦とGHQ
指導者交替 

    指導者の交代
先に述べた制度の改革と並行して、日本の指導者の交代も急ピッチで進められた。
尤も急いで行われたのは戦争犯罪人の摘発であった。9月11日、東条英機ら開戦時の閣僚を含む39人のA級戦犯容疑者の逮捕が命じられた。この時東条はピストル自殺を図ったが、弾が心臓を外れて失敗した。12月6日にはさらに木戸幸一侯爵、近衛文麿公爵ら9人のA級戦犯容疑者が指名された。近衛は11月22日に帝国憲法改正「近衛案」を天皇に報告していたが、逮捕直前の12月16日、服毒自殺してしまう。
A級戦犯は結局、次の28人が開戦の共同謀議、奇襲による殺人、戦中の残虐行為などで起訴され、昭和21年(1946)5月3日から東京・市ヶ谷で開かれた極東国際軍事裁判を受けた。判決は昭和23年11月12日に行われた。28人とその裁判結果は次の通り。
    A級戦犯 
【絞首刑 7人】 東条英機(首相、陸相)、広田弘毅(首相、外相)、土肥原賢二(陸軍大将、奉天特務機関長)、板垣征四郎(陸軍大将、陸相、関東軍参謀)、木村兵太郎(陸軍大将、東条内閣陸軍次官)、松井岩根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)、武藤章(陸軍中将、陸軍軍務局長)
【終身禁固 16人】 荒木貞夫(陸軍大将、陸相・文相)、橋本欣五郎(陸軍大佐、急進派将校らの「桜会」中心人物、衆議院議員)、畑俊六(陸軍元帥、陸相、支那派遣軍司令官)、平沼騏一郎(首相、枢密院議長)、星野直樹(国務相、企画院総裁、東条内閣書記官長)、賀屋興宣(東条内閣蔵相、赦免後衆議院議員)、木戸幸一(内大臣)、小磯国昭(陸軍大将、首相)、南次郎(陸軍大将、陸相、朝鮮総督)、岡孝純(海軍中将、海軍省軍務局長)、大島浩(陸軍中将、駐ドイツ大使)、佐藤賢了(陸軍中将、陸軍省軍務局長)、嶋田繁太郎(海軍大将、東条内閣海相)、白鳥敏夫(駐イタリア大使、衆議院議員)、鈴木貞一(陸軍中将、東条内閣国務相、企画院総裁)、梅津美治郎(陸軍大将、参謀総長)
【禁固20年 1人】 東郷茂徳(東条内閣・鈴木内閣の外相)
【禁固7年 1人】 重光葵(東条の後東条内閣外相、刑期満了後改進党総裁、鳩山内閣副総理、外相
【そのほか 3人】 松岡洋右(満鉄総裁、第二次近衛内閣外相)=裁判中病死 永野修身(海軍元帥、軍令部総長)=裁判中病死、大川周明(国家主義運動家)=裁判中に精神病を発病、免訴・釈放
東条ら7人の絞首刑は判決の39日後、昭和23年12月23日に執行された。その翌日には不起訴となったA級戦犯容疑者19人が釈放された。のち首相となる岸信介もその中にいた。禁固刑の人々のうち小磯、東郷、白鳥の3人は服役中に病死した。その他は多くが病気などで昭和30年ころまでに仮釈放となり、講和後の昭和33年4月、全員赦免になった。
A級戦犯のほかに、連合国は東アジア各地に49の軍事法廷を設け、捕虜虐待などの罪で日本の軍人・軍属らをさばいた。被告数は5700人といわれ、984人が死刑となり、無期刑475人、有期刑2944人を数えた。刑を受けた人々の中には、朝鮮や台湾の人々もいた。
    公職追放 
GHQは10月4日付の指令で思想警察の要員を追放したあと、同月30日、「教師と教職者の調査、精選、資格決定に関する覚書」を出し、職業軍人や軍国主義鼓吹者の教育界からの追放、敗戦までに自由主義・平和主義を理由に教職を追われた人々の復帰を指示した。政府は昭和21年5月にこれを勅令で実施、約7000人の教職者が追放された。
さらに大規模な追放が、昭和21年1月4日付の「好ましくない人物の公職よりの除法に関する覚書」であった。これには、「軍国主義的国家主義と侵略の活発な主唱者」「一切の極端な国家主義的団体、暴力主義的団体、又は秘密愛国団体及びそれらの機関又は協力団体の有力分子、大政翼賛会、翼賛政治会、大日本政治会の活動における有力分子」などを公職から追放し、公共性のある職業に就くことを禁止するとあった。のち追放基準は拡大され、民間の有力会社や経済団体、マスメディアなどの戦争中の幹部らも追放された。占領の全期間を通じて追放された人は21万余人とされる。このうち最も多かったのは軍人の約16万3600人、次いで政治家の約3万4900人であった。
追放令は、基準を恣意的に解釈する余地があったため、鳩山一郎、平野力三、石橋湛山らの追放など、特に有力政治家に適用する場合に問題があった。また、のち昭和25年6月6日には、マッカーサーの吉田茂首相宛書簡で共産党幹部24人が追放されたが、これも昭和21年追放令の適用とされた。しかし、それらの欠陥はあったものの、日本政治の戦前と戦後との不連続をつくるにあたって、大きな効果を持ったのは確かであった。



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