1・敗戦とGHQ
GHQの改革 

    天皇・マッカーサー会談
昭和20年(1945)9月27日、天皇はアメリカ大使館にマッカーサーを訪ねた。この時、天皇が自らの戦争責任を認め、自分に関する処遇をマッカーサーに任せると述べた「潔さ」に、マッカーサーも感動したという美談が伝わった。しかし、2002年に外務省が公表した会見記録には、天皇の戦争責任に関する記述は存在しない。なお、天皇とマッカーサーの会談は、その後も計11回行われた。それらの会談の中で、天皇は戦後の日本を取り巻く世界情勢や日本の安全保障のあり方について意見を表明したことが、通訳の松井明が残したメモに記されている。特に天皇は冷戦対立における共産主義の脅威に言及し、アメリカに対して日本の安全保障に関する積極的関与を求めた。また、最後の会談では、東京裁判において天皇が訴追の対象から外されたことについて、天皇はマッカーサーに感謝している。
なお、昭和45年9月の最初の会談において、米軍が撮影した写真では、マッカーサーは軍服だが略装の開襟シャツ姿で、腰に両手を当てて、足も開き気味にゆったりと立っていたのに対して、天皇は首一つ背丈が低くモーニング姿で直立不動の姿勢をとっているものだった。勝者と敗者との対照が歴然としていた。29日付各新聞は一斉にこの写真を一面トップに掲げた。ところが、内閣情報局はそれを「不敬」だとして即日販売禁止にした。GHQはすぐこの措置を撤回させている。
    人権指令 
10月3日、岩田法相の政治犯釈放否認発言と同じ日、山崎巌内相はロイター通信記者に対し、「思想取締の秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。また政府転覆を企む者の逮捕も続ける」「共産党員である者は拘禁を続ける」「政府形体の変革特に天皇制廃止を主張する者はすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」と語った。しかし、同じ四面には「政治犯の即時釈放、内相らの罷免要求、思想警察も廃止、最高司令官通牒」との記事がトップに掲げられていた。GHQは4日付の米軍機関紙「スターズ・アンド・ストライプス(星条旗)」に内相発言の記事が載ったのを見て、直ちに行動を起こしたのだった。
「人権指令」と呼ばれたこの命令によって、治安維持法をはじめ「思想、信教、集会、言論の自由に対する制限を確立または維持する」ための15の法律と関係法令が廃止され、また、特高などの思想警察や内務省警保局といった機関も廃止された。そして、内相、内務省警保局長、警視総監、大阪府警察局長、道府県警察部長、大都市の警察部長、都道府県警察部特高課の全課員ら約4千人が罷免・解雇された。一方、10月10日以降、2465人の政治犯、思想犯が釈放された。なかに徳田球一、志賀義雄、宮本顕治らの共産主義者が含まれていた。徳田、志賀は獄中に18年、宮本は12年を非転向で過ごしていた。
10月4日にこの命令を受けた東久邇内閣は、実行不可能だとして翌5日総辞職した。在任53日の短命政権だった。後継内閣の首相には、GHQの了解を得て、英米派として知られた元外相の幣原喜重郎が天皇から任命された。
    五大改革 
首相が替わっても、GHQは「上からの民主化」の手を休めなかった。10月11日、マッカーサーは新任挨拶にきた幣原に「憲法の自由主義化」を求め、そのほかに次のような「人権確保の五大改革」を指令した。
一、選挙権付与による日本婦人の解放
二、労働組合の結成奨励。幼年労働の弊害の矯正。
三、より自由なる教育を行う為の諸学校の開設
四、秘密警察及びその濫用に依り国民を不断の恐怖に曝し来りたるが如き諸制度の廃止。人民を圧政から保護する司法制度の確立
五、独占的産業支配が改善せらるるよう日本の経済機構を民主主義化する事
これらの命令は、治安維持法などの廃止(10月15日、勅令)、婦人参政を盛り込んだ衆議院議員選挙法改正(政府提出法案 12月15日成立)、労働組合法成立(12月18日)などで実行に移された。また、財閥解体について政府は三井、三菱、住友、安田の四大財閥の自発的解体計画を11月4日、GHQに提出した。GHQは同6日、これを基本的に受け入れながらも、より一層の解体を進めるとの覚書を出した。 



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