1・敗戦とGHQ
占領 

    降伏文書調印
1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を国民に知らせて鈴木貫太郎内閣は総辞職し、後継首相には降伏・占領に対する軍の抵抗を懸念して、皇族の東久邇宮稔彦王が指名された。
8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥がマニラから沖縄経由で神奈川県の厚木海軍航空基地に到着した。同じ日に、米第11空挺師団の輸送機150機か4200人の部隊を乗せて飛来、占領が始まった。9月2日には横須賀沖の米戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印式が行われた。日本側は重光葵外相、梅津美治朗陸軍参謀長が署名した。
日本国内、アジア各地に展開していた日本軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく、約60日で武装解除された。満州、サハリン、千島列島などにいた日本軍兵士数10万人は、ソ連軍によって武装解除後シベリアをはじめとするソ連領内に連行され、1年から数年にわたって過酷な自然と劣悪な待遇のもとに強制労働に服し、約6万8千人が亡くなった。
日本は、「本州、北海道、四国、九州ならびに連合国の決定する諸諸島(ポツダム宣言)」を米国によって単独占領され、同じ敗戦国のドイツのような連合国による分割占領を免れた。ソ連は参戦後に釧路と留萌とを結ぶ線より北の北海道を占領する意向を示したが、米国が拒否した。しかし、朝鮮半島の北緯38度線以北はソ連が占領した。以南は米国が占領し、ここに朝鮮分断の基礎が作られた。
    間接統治 
マッカーサーは初め日本を直接に統治する軍政を敷こうとし、9月3日にその旨布告しようとしていた。しかし、2日にこの方針を知った日本政府の要請を受け入れ、結局、日本政府を通じた間接統治の形をとることとした。もっとも、米国の対日政策立案を1944年暮れから手掛けていたSWNCC(スウンク=国務・陸軍・海軍三省調整委員会)が、8月22日から31日にかけて起草した「降伏後における米国の初期の対日方針」には、「最高司令官は…天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じて其権限を行使すべし」との原則、つまり間接統治が掲げられていた。ただ、この方針も現存の政治形態を「利用せんとするものにして之を支持せんとするものに非ず」と注釈されていた。
    初期対日方針 
「初期対日方針」には、このほか、①封建的・権威主義的傾向を改めようとする「政治形態の変更は日本国政府に依るとを問わず許容せられかつ支持せられる」こと、こうした変更のために政府や国民が実力を行使しても、占領軍は自らの安全と占領目的にとって必要な場合以外は干渉しないこと、②「宗教的信仰の自由」「集会及公開討論の権利を有する民主的政党の奨励」「政治的理由により…監禁せられ居る者」の釈放など、基本的人権の保障、③財閥解体を示唆する「日本国の商工業の大部分を支配し来りたる産業上及金融上の大コンビネーションの解体」などが示されていた。占領の始まりは民主主義奨励の始まりでもあった。
この初期対日方針には、大まかな占領政策の方向が示されていたが、同時に、こうした民主化や自由化を日本政府なり国民なりが自ら進めていくことへの期待が語られていた。もちろん、武力を背景とした絶対権力が許し、奨励する自主性にどれほどの意味があるか疑わしいが、それにしても敗戦後40日のこの頃、日本政府はほとんど「自主的」努力を放棄していた。というより、「民主」について理解することが全くと言っていいほどできなかったのである。



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