1・敗戦とGHQ 無力な議会 |
厭戦気分 |
一般国民の中には厭戦気分もあったことが、戦後の特別高等警察(特高 思想・言論の取り締まりを主任務とした警察)の資料などによって知られるが、それらが広く形をとり、さらに指導層に影響を与えるということはなかった。ただ、9日の御前会議で阿南陸相が、降伏した場合には抗戦する国民がいて、内乱に至るかもしれないという意味のことを述べたのに対して、平沼枢密院議長は、食糧危機などから見て、「戦争を止めることよりも、続けることはかえって国民治安の乱れることも考えるべきだ」といったことが記録されている。治安のうえからも継戦不能という形で、国民は顧みられたのであった。 帝国議会は戦争終結に向けて、ほとんど何も関与できなかった。旧政党人の斎藤隆夫、植原悦二郎らが天皇の終戦決断を求める上奏を計画したが木戸に拒まれた、というエピソードが残っている程度である。 |
翼賛議会 |
戦争末期の衆議院は「翼賛議会」と呼ばれるものであった。翼賛議会を構成する議員は、1942年4月30日の「翼賛選挙」によって選ばれた。 もともと衆議院は、1937年林銑十郎内閣の時に行われた総選挙による議員の任期が41年春には満了するはずだった。それを第二次近衛内閣が、日中戦争の戦時下であるという理由で1年延ばしていたのだが、東条内閣はそれを41年12月8日に戦端を開いた太平洋戦争での緒戦の勝利で、政府や軍の人気が高まっている機会に選挙をすることとし、政府・軍部に全面協力する議会を一気に作り上げようとした。そのため、42年2月23日、貴族院議員18人をはじめ33人の協力者を集めて翼賛政治体制協議会をつくり、この団体が候補者を推薦する形をとった。これが政府・軍の推薦そのものであることは明らかだった。 |
「翼協」推薦と非推薦 |
「翼協」は466人の定数いっぱいの候補者を推薦したが、非推薦で立候補した者も613人に及んだ。政府は翼協推薦候補には臨時軍事費から5000円の選挙資金を与えるなどして当選を図り、非推薦候補の運動に対しては、警察、憲兵隊が露骨に妨害した。結果は、推薦候補が381人当選した。81.8%の当選率であった。しかし、激しい選挙干渉の中でも、85人の非推薦当選者があったことも特筆できることだった。 非推薦で当選した中には、東方会の中野正剛、木村武雄ら、皇道会の平野力三、国粋大衆党の笹川良一、建国会の赤尾敏など、右翼系の人々が多数いた。しかし、戦後の保守政治を担う次のような人々も非推薦で当選した。 鳩山一郎、安藤正純、花村四朗、河野一郎、川島正次郎、芦田均、斎藤隆夫、星嶋二郎、犬養健、三木武吉、楢橋渡、尾崎行雄、三木武夫。 また、戦後の社会党を作った、西尾末広、水谷長三郎、河野密、三宅正一、川俣清音らも非推薦で当選した。 この翼賛議会が敗戦まで、形ばかりの日本の議会として存在していたのである。 |