1・敗戦とGHQ
国体護持 

    ポツダム宣言
昭和20年(1945)8月14日、米英中ソなどの連合国と交戦中の日本政府は、「全日本国軍隊の無条件降伏」等を求めたこれら諸国によるポツダム宣言の受諾を決めた。日本国民は翌15日正午、天皇が音盤(レコード)に録音したラジオでの放送で敗戦を知った。大部分の国民は、天皇の声を聞くのはこれが初めてであった。
ポツダム宣言は、すでに連合国に降伏したドイツ・ベルリン近郊のポツダムでトルーマン米大統領とチャーチル英首相とが会談して作られ、蒋介石中華民国総統も共同で宣言することに電報で賛成して7月26日に三国の名で発表された。スターリン・ソ連首相はこの会議に出席していたが、共同宣言には8月8日の参戦後に参加した。
    御前会議 
降伏は、8月9日と14日に昭和天皇が出席して開かれた御前会議での天皇の決断によって決まった。御前会議は旧憲法にも定められていない超憲法的機関で、出席者の範囲は一定していなかった。降伏決定にとって最も重要な場面となった9日の会議には、鈴木貫太郎首相、東郷重徳外相、阿南惟幾陸軍大臣、米内光正海軍大臣、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長(以下、最高戦争指導会議メンバー)に平沼騏一郎枢密院議長が加わった。他に迫水久常内閣書記官長、記録を取った保科善四郎海軍軍務局長らが陪席していたが、もちろん意見は言えない。
9日の御前会議に先立つ最高戦争指導会議では、宣言受諾を主張した者が首相、外相、海相、徹底抗戦派が陸相、参謀総長、軍令部総長と、三対三に分かれた。そのため天皇の異例の決断を仰ぐことになったのである。しかし、天皇の決意が生まれる背後には、内大臣の木戸幸一や首相経験者の公爵・近衛文麿、海軍大将・岡田啓介、同・米内光政ら「重臣」と呼ばれた人々を中心に進められていた、反軍部の立場からの戦争終結工作があった。その工作は開戦時の東条英機内閣を前年7月に倒したあたりから形を取り始めていた。また、戦後の日本政治にきわめて大きな役割を果たす吉田茂も重臣牧野伸顕の女婿で近衛らに近く、これら重臣グループに属して、工作に参加している。
    国体護持ばかりにこだわる 
敗戦を受け入れるのにあたっては、重臣たちの関心ごとはただ一つ、「国体護持」であった。その点は軍部も同じであった。極論すれば、彼らは国体護持以外はどうでもよいというに等しかった。
国体とは、「万世一系」の天皇に統治権があるとする国家の政治体系のことである。9日の御前会議の結果を受け、政府は10日、ポツダム宣言の受諾を中立国を通じて連合国に打電するが、それには「宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざる事の了解の下に」受諾すると書かれていた。
これに対して連合国側は、バーンズ米国務長官名で、11日付で次のように回答した。
「降伏時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は…連合国軍最高司令官の権限の下に置かるるものとす」「最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵ひ日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」
このうち統治権が最高司令官「の制限の下に置かるる」のくだりは、原文では「subject to(に従属する)」となっていたのを、外務省が、これでは主戦論者を刺激すると恐れてこのように訳したのだという。この文章は「天皇…の国家統治の権限は」と、天皇の権限を前提にしている、つまり暗黙のうちに認めているとする解釈も成り立つものであり、事実、米国側はそれを匂わしたつもりであったことがのちに分かる。しかし、これをめぐっても日本側の議論は沸騰し、14日に再び「聖断」を仰いで、ようやく正式に受諾が決まった。
このように、戦争終結は重臣たちを中心とした一握りの指導者たちによって、「国体護持」の否かだけを最大の気がかりにして実現したのである。この間、内閣は最高戦争指導会議の首相、外相、陸海軍相以外は、政治意思の決定に当たってはほとんど脇役に過ぎなかったのである。



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