廃藩置県とは ~激動の一日~ |
明治4年(1871)7月14日(陰暦、陽暦では8月29日)の午後3時、皇居の大広間には急きょ呼び出され、正装に身を包んだ在京中の知藩事(旧藩主)達56人が集まっていた。 彼らの前に明治天皇が進み出て、右大臣三条実美が詔書を読み上げる。そこには「億兆を保安し万国と対峙」するために「藩を廃して県と為す」という天皇の言葉があった。いわゆる廃藩置県のセレモニーである。ほとんどの藩知事は耳を疑った。全く予想できなかったことであった。ほとんどというのは、実は数名の知藩事は数時間前にすでに知らされていたからである。実は、セレモニーは午前中から始まっており、7月14日は皇居にとって、実にあわただしい一日であった。 午前10時、長州藩知事毛利元徳・薩摩藩知事島津忠義・肥前藩知事鍋島直大・土佐藩知事山内豊範代理大参事板垣退助の四名が、皇居の小御所代に呼び出された。版籍奉還を率先して建議した。この四藩の知藩事や代理の前に天皇が現れ、勅語を与えた。それは版籍奉還の行為を褒めたたえるとともに、このたび「藩を廃し県と為」すこととなったので、その意を体し「翼賛」せよ、という内容だった。廃藩置県が最初に宣言されたのである。 ついで、名古屋藩知事徳川慶勝・熊本藩知事細川護久・鳥取藩知事池田義徳・徳島藩知事蜂須賀茂昭が呼び出される。この四名は、廃藩や知藩事辞職を建議していた知藩事であり、彼らにはその建議を褒める勅語が与えられている。その後、在京知藩事に対し、突如として廃藩置県の宣言が行われたのであった。 廃藩の合意が維新政府内で成立したのは、断行5日前の7月9日の事である。それも薩長両藩の指導者の西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌・木戸孝允・山県有朋・井上馨らのみでの決定であり、彼らは有力はんの土佐藩をはじめとする諸藩には全く知らせなかった。さらに、当時の最高首脳であった右大臣三条実美と大納言岩倉具視が廃藩計画を知らされたのは、わずか2日前の7月12日であった。 廃藩置県はこのように極秘に短期間で進められ、天皇による一方的な電光石火の早業として断行されたのである。261の藩が廃され、そのまま県となり、江戸幕府滅亡後、新政府の直轄地に置かれていた府・県と合わせて3府302県となった。知藩事は罷免され、旧藩地を離れて東京への転居を命じられる。 一片の詔書により藩が消滅し、江戸幕藩体制は完全に崩壊し、明治中央集権国家―「明治国家」が誕生したのである。 |