海軍軍縮と山本五十六
 ~国家の名誉と補助艦競争~
 


 それぞれの国家の名誉
山本が軍縮会議で矢面に立って活動するのは、第一次ロンドン会議と第二次ロンドン会議の予備交渉である。前者では海軍の次席随員、後者では日本代表である。
人間は誰でも金や名誉がほしい。「神」が人間に与えた基本的な欲望であり、名誉の為には命を捨てることも珍しくない。国家についての同じであろう。現在のようにGNPの観念が普及していなかった戦前では、国力を軍備で測る傾向があった。陸軍よりも海軍の方が国際的な尺度となりやすく、日本が世界の三大国の一つといわれたのも、海軍力を基準としていた為だ。
ワシントン会議で最も面目を失ったと感じたのは、フランスであった。イギリスの5に対して1.75との比率は、フランス人にとっては我慢できないものであった。フランス人のイギリスに対する感情は、微妙なものがある。英語の使用には抵抗感があり、フランスにおける国際会議では英語の文書が入手しにくい。戦後の東京裁判でフランス語は公用語として認められなかったのに、断乎としてフランス語を使用して裁判所とトラブルを起こした検事もいたほどだ。
フランスではナポレオンを誇りとする傾向があり、イギリスの最大の英雄は、ナポレオンの艦隊を破ったネルソンであり、また陸軍を破ったウェリントンなのである。
ワシントン会議でははじめ、主力艦・空母だけではなく巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の制限も計画されていた。しかし、主力艦・空母で劣勢比率を押し付けられたフランスの海軍随員・軍令部長ドン・ボンは、日本の随員に「補助艦までこの比率ではフランス代表は本国へ帰れない」と苦衷を訴えた。
 補助艦競争に走った理由
日本も七割の比率が通らずに屈辱感を味わっていた。加藤はフランス側に、補助艦比率破棄を提案すれば「反対しない」と内意を伝える。やがて、フランス全権・首相ブリアンが破棄案を提出し、日本が反対せずイギリスが賛成したので、補助艦制限は流れてしまった。
イギリスも国家の名誉を考えていたのだ。世界随一の海軍と自負していたのに、イギリス人が「なりあがり者」と考えるアメリカと同等になり、面白くない。補助艦でアメリカより優位にあれば、何とか世界第一の面目を保てるわけだ。
これらの経緯を知れば、ワシントン会議の後世界の海軍国が補助艦競争に走ったのも、たやすく理解できる。
初めての補助艦制限会議がジュネーブで開かれたが(1927年)、この時もフランスは日本に接近してきた。会議に先んじて駐日フランス大使クローデルは、のちに第一次ロンドン会議で全権となる海相・財部彪を訪問し、次のように語ったという。
「フランスは海岸及び領土を守るため、多くの小艦隊特に潜水艦を必要とする。日本もご同様ならんと思う」
「各国は自国の安全を主として国防を計画する事由がなければならない。総トン数を制限してその範囲内で各国が自由に国防を行うのが良い」
「フランスは多くの駆逐艦・潜水艦を必要とするので、5-5-3-1.75の比率は、到底忍ぶことができない」
「このさいアングロサクソンと対立して、日本とフランスの関係は、相似たものと考える」
この会議がイギリスとアメリカの対立で決裂した後、第一次ロンドン会議の開催となる。山本は海軍次席随員として昭和4年(1929)11月30日、サイベリア丸で横浜を出航し、アメリカ経由でロンドンへ向かう。
出発の日に少将に進み、46歳。アメリカ駐在武官・軽巡「五十鈴」艦長・空母「赤城」艦長を経て、脂の乗り切った時期であった。





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