海軍軍縮と山本五十六 ~七割思想~ |
日本海軍がロシア艦隊を撃滅した後、次に戦う可能性ある国家としては、ドイツとアメリカが浮上してきた。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は29歳で即位し、専横的な親政を確立していた。明治28年(1895)には「吾人の将来は海上にあり」と公言し、大海軍の建設に乗り出した。イギリスと並ぶ植民帝国を夢見ていたのである。 ドイツはこの頃、マーシャル、マリアナ、カロリンの南洋諸島を領有し、山東半島の膠州湾を中国から租借して、青島には軍港を建設していた。この軍港には工廠あり浮ドックありで、皇帝は最精鋭の軍艦を太平洋艦隊として派遣していた。 ウィルヘルム二世には日本を敵視する発言が目立ち、日本海軍を刺激した。皇帝の母はイギリスのビクトリア女王の娘で、イギリス国王エドワード七世とはおじ・おいの関係にある。皇帝はイギリスに気兼ねして、ことさら日本を敵視する姿勢を見せていたようである。 アメリカは大統領セオドア・ルーズベルトの時代であった。ルーズベルトはドイツ皇帝に習って大海軍の建設に乗り出し、目標は「イギリスを除いてはいかなる海軍にも劣らない」というのである。当時フィリピンはアメリカの植民地であったし、「海上勢力を持たなければ国家は発展しない」というアルフレッド・マハンの教義を信じるアメリカ国力の西太平洋への進出は、日本の脅威であった。 現実に日本は、第一次世界大戦ではドイツと、第二次世界大戦ではアメリカと戦った。日露戦争後の日本海軍の軍備は、日本の南方海域に勢力を延ばすドイツ、アメリカの海軍の勢力に対して、ほぼ七割を整備するのを目標とした。七割の勢力があれば、地理上の利点と優れた術力により、国家を守ることができると考えられた。この七割思想が、軍縮会議における日本海軍の強い信条として作用するようになる。
いずれも建造されてからの艦齢8年以内との付帯条件が付随しているが、装甲巡洋艦は各海軍国の建艦思想の進展により、大正時代になると巡洋戦艦に進化して類別されるようになった。 日本海軍が待望した八・八艦隊の予算が議会で成立したのは大正9年(1920)である。それでワシントン会議がなければ、昭和2年(1927)に日本海軍は戦艦として「長門・陸奥・加賀・土佐・紀伊・尾張・第七号・第八号」の八隻を、巡洋戦艦として「天城・赤城・高雄・愛宕・第五~第八号」の八隻を保有するはずだった。第二次世界大戦に参加した「扶桑・山城・伊勢・日向」の戦艦や、「金剛・比叡・榛名・霧島」の巡洋戦艦は、艦齢八年以内という条件により、第二戦艦隊に格下げされることになる。 この艦隊の権艦には膨大な臨時の予算を必要とするが、それにも増して艦隊の維持のために巨額の経常費がいる。1921年頃になると第一次世界大戦後の好景気にも陰りが見えてきた。 国家の富が飛躍的に増えない限り、八・八艦隊の建造・維持ができないことが、やがて明白となる。大蔵省当局は海軍首脳に対し、日本の財政を「生かすも殺すも」海軍であると訴え、八・八艦隊生みの親の海相・加藤友三郎も「このままではやっていけない」と苦しい心中を漏らすようになる。 海軍の建設・維持に金がかかることは、どこの国でも同じである。アメリカ大統領の招きで大正10年(1921)にワシントン会議が開催された背景は、このようなところにあった。このとき山本は海軍中佐で、最初のアメリカ駐在を終えて帰朝していた。軽巡「北上」副長として、潮気をしばらく吸ったあと、海軍大学校の軍政学の教官として講義を始めるところであった。
この会議でも日本は、対米七割を強く主張したのだが、アメリカの認めるところとならなかった。やむなく首席全権加藤友三郎の決断により、アメリカがフィリピン。グアム島、アリューシャン諸島の、イギリスが香港の防備を制限するとの条件で、六割制限を受諾したのである。 加藤は、日本に近い英米の海軍基地に、軍艦の修理・維持に必要な設備が新設されたり増大されたりしなければ、六割でも英米に対して抑止効果があると信じたわけで、その思考過程は極めて健全であった。 この頃山本が七割思想についてどう考えていたかは不明である。のちの第一次ロンドン会議の態度から見て、一応是認していたのだろう。 この会議の結果に鑑みて山本は、航空軍備について鋭い観察を加えるようになっている。大学校で戦艦と航空機の攻防問題を論じ、必勝戦備は軍縮の対象とならない航空機にあると着眼し、その軍備の確立を唱えたのである。 山本の専攻はもともと砲術であった。砲術学校教官や巡洋艦砲術長の経歴もある。航空の重要性を信じた山本は、やがて自らの希望で航空の分野に転身する。 ワシントン条約成立の翌々年、山本は霞ケ浦海軍航空隊教頭兼副長となり、新しい分野に入る。海軍大佐であった。 |