武田氏の家臣団と身分・役職
3.地方支配の責任者
 ~郡司の設置~
 


 直轄地を支配する郡司
戦国大名の領国は広大である。武田信玄の場合であれば、本国甲斐を中心に、信濃・西上野・駿河・北遠江・北三河・東美濃を治め、飛騨・越中の一部も影響下に置いている。ようするに、山梨県知事と長野県知事・静岡県知事など多数の知事職を兼ねた存在と言ってよい。
このような広大な領国を、大名が一人で支配できるはずがない。したがって、重臣を支城主や城代に任命して、一定地域の統治権を委任した。武田氏においては、広域行政権が付与された支城主・城代を武田氏の公文書では「郡司」としている。
だが、軍事の支配領域はあくまで直轄領である。大名の直轄領ではあるが、直接支配はしないので、間接支配領域になっている。これが「郡司」の管轄領域である。逆に当然大名が直接目配りをする地域も存在するわけで、こちらは「直接支配領域」と呼ぶことにする。つまり、大名直轄領の中に「直接支配領域」と「郡司」に支配を任せた「間接支配領域」が存在するという構造である。
そしてさらに、大名領国内には自治権を保持している「国衆領」が存在する。このように、戦国大名領国がどのように支配されているかは、地域によって異なるのである。
 「郡」と「領」
東国の戦国大名は、家臣に任せた支配領域を「郡」または「領」と呼ぶことが多い。武田氏が設置した郡司は、古代律令国家が定めた郡域を支配単位とする家臣となる。ただし、各地域ごとに異なる歴史的変遷を遂げており、古代に定められた国郡制とはほとんど関係なくなっている。古代とは郡名や郡域が変わっていることも珍しくないのである。
ようするに、一から制度を立ち上げるよりも、すでにある名称を利用したほうが楽で、問題があれば手を加える。これが戦国大名の姿勢なのである。地元で長年かけて定着した物事のあり方をすべて壊す必要はない。同じ名前が使われているからと言って、中身が同じであるわけではない。これは、いつの世も同じことであろう。
一方の「領」は、主に国衆の支配領域を指しており、各国衆の本拠の名前から「○○領」と呼ばれる。国衆が大名に従わずに滅ぼされた場合でも、「○○領」という呼称で行政単位として残るのである。一見すると「郡」とは異なるように思えるが、戦国大名の行政区画において、「郡」と「領」は実際にはほぼ同じものである。

 武田領内の郡司
では、武田領内に置かれた郡司をみていく。まず置かれたのは諏方郡司である。これは、武田信玄が最初に領国化したのが諏訪郡であるためである。それを皮切りに、各地域に郡司が設置されるようになっていく。
● 諏方郡司:上原城代→高島城代
板垣信方→板垣信憲→吉田信生→市川昌房→今福昌和
● 佐久郡司:内山城代
小山田虎満→小山田昌成
● 上伊那郡司:高遠城代
諏方勝頼→今井信仲
● 下伊那郡司:大島城代
秋山虎繁→日向虎頭
● 川中島郡司:海津城代(埴科・更級・水内・高井郡を担当)
春日虎綱→春日信達→安倍宗貞 
● 筑摩郡司:深志城代(安曇郡を担当している可能性)
水上宗富
● 西上野郡司:箕輪城代(吾妻郡・利根郡と群馬県北部を除く地域を担当)
浅利信種→内藤昌秀→工藤長門守→内藤昌月
● 富士大宮郡司:大宮城代(富士郡のうち富士氏旧領を担当)
原昌胤→原昌栄
● 駿河郡司:久能城代(駿河のうち富士川以西を担当)
板垣信安→今福長閑斎→今福虎孝
● 河東郡司:興国寺城代(駿東郡と富士郡のうち富士大宮管轄害を担当)
曾根昌世
● 美濃遠山郡司:岩村城代(恵那郡岩村遠山氏旧領を担当)
秋山虎繁
● 北上野郡司:岩櫃・沼田城代(北上野の吾妻・利根郡及び群馬県北部を担当)
真田昌幸

これだけの領域を、信玄・勝頼は重臣に任せて直接支配領域から切り離したのである。ただしこれらの領域の中には国衆領が存在するから、各郡司は任された領域全ての支配を担当するわけではない。国衆領はあくまで自治領であり、国衆は大名直属の扱いをうけていたからである。




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