信玄の領国経営 ~軍事ネットワーク~ |
棒道といえば、北信濃川中島方面への進出を企てた信玄が、大規模な部隊を素早く送り込むために建設した直線的な軍事用道路として知られ、金山開発や信玄堤の建設などと共に、武田信玄を語る上で欠くことのできない事項となっている。しかし、その建設については「甲府より諏訪郡への路次の事、勧進致して之を作るべし、同じく何方の山といえども、木を切り橋を架けるべきものなり」と記した天文21年(1552)武田晴信竜朱印状(南佐久郡高見沢文書)が今日確認されている唯一の史料であり、信玄棒道建設説については不透明なものが多い。 文献によると、棒道について最初に総括的な記述を行ったのは文化11年(1814)に編纂が終了した「甲斐国志」で、これにればり棒道には、穴山―若神子新町―渋沢―大八田―白井沢―小荒間を経て、信州堅沢―大門峠を結ぶ上の棒道、小淵沢と信州田端を連絡する下の棒道の3ルートがあり、「古時軍行ノ宏道」として機能したという。 「甲斐国志」は信玄棒道建設説には触れていないが、軍事用の幅の広い道とのべている事を考えると、甲斐の軍勢が行き来する軍用道路としての役割が伝承されていたのであろう。
武田家の軍法において、狼煙は飛脚がかりと呼ばれ、「甲陽軍鑑」によれば大害が出たときに用い、高坂弾正により工夫がなされたが、それは奥義となっていた。 甲斐国内の狼煙については「甲斐国志」が各地に残る烽火台伝承を網羅している。山梨県南部の河内地方を南流する富士川の流域は、河川の曲折に合わせて山が入り組み、左右から突出した尾根上には必ず亭候がおかれ、相互に連携連係し鰍沢並びに黒沢に達し、領域の警護を行っていたという。 北部の塩川上流は穂坂路が通る山峡の地で、谷間は屈曲して峰岳が隔てられていることから、烽火を数か所置いたとする。 「甲斐国志」の「朝日山ノ累跡」の項には、「武田の軍法に飛脚がかりとて四方の道筋に烽火台を置き相照らし伝えて遠境に変あれば即時に告げ知らしむ此筋には信州へ出る路多き故烽火台も数所あるべし」と、信濃と境を接する地域からの情報伝達にはいくつかのルートがあったことが伺える。穂坂路の烽火群もその一つと考えられる。 郡内に残る鐘撞堂や御前山といった類の名称の場所は、烽火台の跡と推定され、陣鐘の合図によって甲府へ敵情が達せられて、鐘の音を聞いて甲府からも軍勢が出陣したという。 山国の甲斐にあっては、正確で迅速な情報の収集が、合戦の勝利への重要な決め手となったと考えられる。そのため武田氏は、他の戦国大名との戦いに備えて、情報通信網を領国内に張り巡らせていたことが想定できるのである。 |